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tennsei

2015.12.09 (水曜日)

ついに完結!?天声酔語 
第100話は「Barという空間」についてである。

「Bar」というものは古今東西、千変万化で存在している。 古くは紀元前から存在している酒場が、その形や様式、 そして呼ばれ方が時代によって変化を繰り返し、 永い年月が経ち、現代のように様々なスタイルの 「Bar」が生まれている。
「Bar」にはダイニングバー、ダーツバーなど多くの 業態が存在するが、その中でオーセンティックや クラシックと言われる「Bar」が在る。
「Bar」という空間ではお酒やカクテルは ただ単に飲むだけではない。言ってしまえば人々が 「Bar」という空間に行く理由は他に在るのだ。

お店ごとに歴史を感じるのは「Bar」の特徴だろう。
ただ古ければ良いのではないが、重ねた時間は そのお店の歴史となって建物、バックバー、 カウンター、椅子に刻まれる。その歴史は来る人々を 魅了するだけでなく、また行きたくなるという 魔法をかけてしまうのだ。

「Bar」に来られるお客様にはそれぞれの人生がある。
そしてBarで過ごす時間も人生の1ページである。
だからこそ「Bar」では何を飲むかより、誰と飲むかが 大事なのだ。恋人、親や子供、上司や部下、 共に闘った同僚、古くからの友人、 バーテンダー、自分自身などいろんな飲む相手がいる。
相手によって、飲むお酒も違えば、飲み方も違う。
その一瞬一瞬がその人、そしてそのBarの物語となるのだ。

「Bar」にはBartender(バーテンダー)と呼ばれる者がいる。
「Bar」とは飛ぶのに疲れた鳥が羽を休めるための 休息の止まり木であり、Bartenderとは その 「止まり木(Bar)」の「愛であり、優しさ(Tender)」 であると自分達は訳している。
だからこそお店では笑顔で お出迎えし、少しでも元気になって帰って頂くために 日々、汗や涙を流している。
そしていつか自分のお店を 出し、自分を応援してくれているお客様に恩返しを するという夢や目標を持っている者は多い。

「Bar」には刻んだ時間の分だけ歴史があり、そこに来店された お客様の分だけ物語がある。
そしてBartender(バーテンダー)の 流した汗と涙の分だけ夢があるのだ。
それらが「Bar」という 空間に漂うことで、「Bar」に来店される人々を心地良く 酔わせてしまうのだろう。
今夜も世界中の「Bar」で、提供されるお酒やカクテルは もちろん、その空間や時間、人との出逢いを愉しんでいる 人々を多く見かけるのだろう・・・

2015.12.02 (水曜日)

第99話は「カクテルの名脇役・副材料」についてである。

カクテルの副材料には主材料のお酒に対しても数多く存在している。
その種類には ハーブ・スパイス類、野菜類、フルーツ類、
砂糖類・シロップ類、ソフトドリンク類、その他類などがあり、そして氷がある。

ハーブ(Herb)とは西洋で昔からその薬効成分や芳香性を利用されてきた薬用植物のことを言い、植物の根、茎、葉が使われる。
ハーブ類にはミント、ナツメグ、シナモン、クローブなどがある。
スパイス(Spice)とは香辛料のことを言い、東洋から西洋に輸送され、 さまざまな香りや味で料理やカクテルを引き立てる役目を果たしており、 主に植物の葉、蕾、果実などが使われる。
スパイス類にはコショウや山椒、 タカノツメ、カエンペッパー、タバスコなどが使用される。

野菜類にはスティック状に切り、マドラー代わりとして使われる野菜もある。
フルーツ類ではレモン、ライム、オレンジ、グレープフルーツの柑橘類が 最も使用され、他にも季節に合わせて、ブドウ、パイナップル、イチゴなどを 絞った果汁を使ったり、デコレーションとして利用される。
砂糖・シロップ類ではグラニュー糖や上白糖、粉砂糖、角砂糖などが カクテルによく使われる。シロップではシュガーシロップ、ザクロ果汁を加えた グレナデンシロップ、他にもメロンやストロベリーなどフレーバーシロップが つくられている。

ソフトドリンク類には炭酸飲料、果実飲料、コーヒー飲料など種類が多いが、 よく使われるのは炭酸飲料や果実飲料であろう。
その他類には卵やバター、 ハチミツ、塩などもカクテルの特殊なカクテルのレシピに用いられている。

そして副材料として最も欠かせないのは氷の存在である。
酒やカクテルを美味しく飲むために不可欠なのが、氷(Ice)なのである。
人間が飲みものを美味しくと感じる温度は体温のプラスマイナス25〜30℃と 言われている。
平均体温36℃から考えると冷やす場合は6〜11℃くらいに なるのだが、いくら冷やしたお酒や副材料でカクテルをつくっても その美味しさは半減する。
例えばすでに冷えている材料を入れて氷を 入れずにシェイクをしても美味しいカクテルは仕上がらない。
その理由には氷から溶け出した水分も合わさって、ひとつの液体となり、 カクテルがつくり上げられるからである。

カクテルはドラマや舞台と同じで、主役だけでは成立しない。
その物語を面白く(美味しく)するのは主役を引き立てる 脇役(副材料)という存在があるからこそである。
カクテルという物語でお酒という主役を引き立てつつ、 飲む者の印象に残る脇役は特に「名脇役」と呼ばれる。
Barではカクテルの数だけ、物語があり、その物語には 主役だけでなく、名脇役が存在する事を決して忘れてはならない・・・

2015.11.25 (水曜日)

第98話は「リキュールの愛すべき個性」

リキュールはスピリッツに様々な果実、薬草、香草、花などの香味成分を 配合してつくられ、ウイスキーやジン、ウォッカと違って、 多種多様な色、香り、味わいと、ひとつとして同じものは存在しないのは 製法や原材料のバリエーションの多さからである。
製法にはベースの蒸留酒と香味原料を混合、または水と香味原料を混合し、それを蒸留釜で蒸留して香味成分だけを残す「蒸留法」、 冷浸法と温浸法に分けられる、最も古くからリキュール作りに使用されてきた「浸漬法」、ベースの蒸留酒とは別に抽出しておいた エッセンスオイルを加えて香りを付ける「エッセンス法」、香味料に、ベースの蒸留酒または水を循環させながら香りや味を抽出する 「パーコレーション法」の4つに分類され、それぞれに特性に向いている製法でつくられている。

原材料にもその種類から4つに分類される。
まずは「香草・薬草系」という香草・薬草・スパイスの類を主原料とするリキュール。
中世に薬酒としての役目を担っていた修道院系のリキュールのほとんどはここに属するものである。
ベネディクティンのように中世の 修道院でつくられたレシピを復元しているものや、シャルトリューズようにレシピが秘密にされていたり、100種類以上の原材料を配合しているものもある。その強烈な個性からアクセントや隠し味として少量の香草類が使われている場合がほとんどである。
カシスやストロベリーのような「果実系」という果実の果肉・果皮・果汁を主原料とするリキュール。
近年ではこの種類が最も多く、果物ではないものがないほど幅広く扱われている。香草・薬草系よりは嗜好品としての要素が強く、カクテルだけでなく、ケーキやお菓子などに利用される事も多い。
風味が優しく、飲みやすいものが多いので、若者にストレートやソーダ割りなどで飲まれるものである。
そして「ナッツ・種子系」という果実の種子や豆類を用いたリキュール。
アマレットのような杏の種子を使用したものや、コーヒー豆のように焙煎された材料が使われるものもある。重厚な風味と甘味を備えたものが多く、その甘みから食後酒やデザートカクテルに向いている。
最後に「その他」という製造技術の発展によって生み出された斬新なリキュール。
卵やクリーム・ヨーグルトといった珍しいものがある。

今や果実、薬草、香草、花などの存在するものであれば、リキュールとしてつくられていないものがないほど、多くのリキュールが存在する。
それぞれのリキュールがメインとなったり、アクセントとなったりして、 様々なカクテルを生み出されるのだ。今夜もリキュールはその愛すべき個性を 発見してもらえるようにBarのバックバーでスポットが当てられている のかもしれない・・・

2015.11.18 (水曜日)

第97話は「リキュールの神秘」についてである。

リキュールとは一般的にスピリッツに果実、薬草、香草、花などの香味成分を配し、砂糖などの甘味料や着色料などを添加してつくられるお酒である。
その始まりは紀元前の古代ギリシャにまでさかのぼり、医聖ヒポクラテスが薬草をワインに溶かし込み一種の水薬をつくったのがリキュールの起源だと言われている。
現在のようなスピリッツをべースとしたリキュールを誕生させたのはブランデーの祖でもあるスペイン生まれの医者兼錬金術師達のアルノー・ド・ヴィルヌーヴとラモン・ルルだとされている。

彼らはアクア・ビテ(生命の水)と呼ばれるスピリッツ(蒸留酒)にレモン、ローズ、オレンジの花、スパイスなどの成分を抽出してリキュールをつくった。
そして各種薬草や香草を加えて、より一層薬効がある不老不死の霊酒をつくり出そうと研究され、神秘的な力が宿ったリキュールが生み出されたのだ。
これらの薬酒は植物の有効成分が溶け込んでいるので、ラテン語でリケファケレ(溶け込む)と呼び、このリケファケレがリキュールという名称の語源へと変わっていったと言われ、 錬金術師からリキュールの製法を受け継いだのはラテン語の文献に精通した中世の修道院の修道士達である。
彼らは修道院ごとにモンクス(修道士)リキュールという特徴あるリキュールを新たに生み出していった。
神への信仰を誓った修道士がつくるリキュールはさらに神格化されたのは間違いなく、こうした修道院でのリキュールづくりは特にフランスで発展し、1510年ノルマンディー地方の修道院 ベネディクティン、1605年にグルノーブル近郊の修道院でシャルトリューズが生まれ、その秘伝のレシピは修道士達によって現代まで守り続けられた。

16世紀にはイタリアのリキュールもフランスに伝わり、やがて大航海時代に入ると新大陸やアジアのスパイスがもたらされ、試される薬草や香草、果実も増えていったことで、医薬的効用だけでなく、美味の追求されることとなった。
そのおかげで修道院だけでなく、貴族、領主などの間でリキュールが広まり、特に貴婦人達に愛され、身に付けた宝石や衣服とのコーディネートを楽しみ、それが「液体宝石」、「飲む香水」と呼ばれ、ヨーロッパ全土に広がっていったのである。
日本にリキュールが紹介されたのは豊臣秀吉の時代であるとされており当時、利休酒と言われていたのがリキュールのことだろうと推測されている。
日本の文献で初めてリキュールが登場するのは1853年、黒船来航の時であり、ペリー提督にリキュールなどでもてなされた浦賀奉行のことが記録に残っている。
19世紀後半には世界的に連続式蒸留機の普及とともに高アルコール、高濃度をベースとして洗練された味わいのリキュールがつくられるようになった。
さらに現代では高度な発展により、多くの高品質なリキュールが続々と世に生み出されている。

錬金術から不老不死の霊酒として発展し、健康だけでなくそこから彩りや美味への追求、そして現代へと受け継がれた歴史あるリキュールだからこそ、多くのドラマを生み出すBarでもその存在感を出せるのだ。今夜も神秘的なリキュールによって彩られたカクテルがBarカウンターにいる、紳士淑女を何色かに染め上げるのだろう。

2015.11.12 (木曜日)

第96話は「第5のスピリッツ・ワピリッツ」である。

ジン、ウォッカ、ラム、テキーラという4大スピリッツに ついては前述したが第5のスピリッツの存在になるべく、 2015年7月に「和のスピリッツ」が誕生した・・・!?

まったく新しい和のスピリッツ、それが「WAPIRITS(ワピリッツ)」である。
WAPIRITSとは日本伝統の酒造り、麹(こうじ)の技術、厳選された 国産ボタニカルで紡(つむ)ぎだされたニッポン生まれのカクテルベースのスピリッツのことである。
その中で第一弾として、大麦麹を使用したスピリッツと ゆずやカボスなどの5種の純国産フルーツ&ハーブといったボタニカル スピリッツをブレンドさせて仕上げたのが「TUMUGI(ツムギ)」である。
日本の酒税法では明確に分けられており、焼酎は「蒸留時以外の添加が 行われてはならない」とあるので、ボタニカルは規定外にあたるため、 焼酎ではなく、スピリッツとなります。
そして度数でも違いがあり、 通常の焼酎は20~25度で、TUMUGIは40度であるため、 カクテルベースとして使用した時にコシの強さが際立ち、骨格がしっかりと したカクテルが生まれます。

TUMUGIの“つむぐ”とは複数のより糸をねじって一つの糸とすることを 意味し、古来よりその細やかで丁寧な作業から手間をかけて丁寧に ひとつのモノをつくるという意味がある。
バーテンダーがつくる カクテルも複数の素材を一つのカクテルに紡いでいくように バーテンダーと日本の麹文化、日本の四季や風土を紡いで世界に向けて 発信していきたいという想いが由来である。

WAPIRITSのTUMUGIを使用したナンバーワン商品として考案されたのが DRYSONIC(ドライソニック)であり、世界で一番飲まれているジントニックに 変わるニッポンカクテルとして存在感を放っている。
他のWAPIRITSカクテルも麹が醸し出す豊かな味わいと爽やかな和の ボタニカルの香り、そしてコクとキレが厚みとなって生み出されるカクテルに 立体感を与えており、他にはない個性となっている。

焼酎ブームが沈静化している中、ニッポンの誇りが生み出した新たなスピリッツ 「WAPIRITS」で世界を席巻するのもそう遠い日ではなさそうだ。

2015.11.09 (月曜日)

第95話は「日本の麹文化・焼酎」についてである。焼酎は日本産の蒸留酒で中身的にはスピリッツ類に含まれるタイプではあるが、国内の酒税の関係で別に区分されている。

焼酎は甲類と乙類に分類されており、焼酎甲類は連続式蒸留機で蒸留したもので、アルコール度数が36度未満のものをさす。
糖蜜を原料に使うことが多いが、イモ類や穀物を使うこともある。焼酎乙類は連続式蒸留機以外の蒸留機で蒸留したもので、そのアルコール度数が45度以下のものをさす。
ほぼ単式蒸留機が使われ、本格焼酎とも呼ばれ、九州南部や南西諸島が主な産地である。
焼酎乙類は日本で生まれた最初の蒸留酒と言えるだろう。

焼酎の起源は諸説あるのだが、琉球説が有力である。15世紀にはシャム(現在のタイ)などの東南アジアから琉球王国に伝わり、この地で蒸留が行われていたと考えられる。
これが泡盛の始まりであろう。
1546年には薩摩で米でつくった焼酎(オラーカ)が飲まれていたという記録が残っていることから先に米焼酎が誕生し、その後1705年には中南米の原産で、フィリピンから中国、琉球を経て日本に伝わったと言われているサツマイモが渡来して以降は芋焼酎づくりが盛んになっていった。
そして焼酎は九州南部に広がり、球磨地方や宮崎地方で盛んにつくられ、やがて九州北部から中国地方、四国地方で単式蒸留で蒸留された酒粕焼酎が広まっていった。
日清戦争後の1895年ごろにはヨーロッパから連続式蒸留機が日本に入ってきて、1905年ごろには焼酎甲類に相当するものがつくられるようになった。
当時、この新しいお酒は新式焼酎と呼ばれ、もともとあった単式蒸留機でつくる焼酎は旧式焼酎と呼ばれた。

焼酎乙類は単式蒸留機を使用するため、原料の違いがその酒の風味の違いとなっており、ヘビーな風味が多い。
原料の違いから区分すると、泡盛、もろみ取り焼酎、粕取り焼酎の3つに大別できる。
泡盛は沖縄特産で黒麹菌を繁殖させた米麹だけでつくられる。
土中に埋められたカメで長期熟成したものは古酒(クース)と言い、重宝されている。
もろみ取り焼酎は米麹のもろみにイモ、米、麦、ソバ、黒糖糖蜜などを加え、発酵、蒸留したもので、現在は栗、じゃがいも、紫蘇、ごまなどと種類も増えている。
粕取り焼酎は清酒を絞った残り粕に、もみがらを混ぜ、蒸気を通して粕の中からアルコールを回収したもので清酒をつくっている酒蔵がこれを販売していることが多い。

焼酎づくりに欠かせない麹もまさしく日本独自の文化である。
ワインと違い、芋や麦、米には糖が含まれていないため、その代わりとしてデンプンを糖に変える必要があるのですが、その変換に関わっている微生物が麹菌です。
焼酎に使われる麹菌は主に3種類に分かれ、黄麹(きこうじ)、黒麹(くろこうじ)、白麹(しろこうじ)とある。
日本では1970年代、1980年代と焼酎ブームとなり、近年では2003年に空前の本格焼酎のブームが起こったことは記憶に新しいが、今現在は沈静化している。
ただ日本の伝統的な麹文化と造り手達の誇りよって生み出される焼酎というものがこのままでは終わる訳がないのだ・・・

2015.11.02 (月曜日)

第94話は「その他スピリッツの存在」についてである。

ジン、ウォッカ、ラム、テキーラの4大スピリッツ以外にも世界各国でスピリッツは存在する。
まずはアクアビットというじゃがいもを主原料にして、発酵、蒸留しハーブなどで香りをつけた北欧諸国の特産酒である。
ノルウェーではAquavit、デンマークではAkvavit、スウェーデンでは両方の表記で使われているが、綴りからもラテン語で蒸留酒を意味するAqua vitae(アクア・ビテ:生命の水)が変化したものである事が分かる。
生命の水の最も正統派の名称を持ったスピリッツと言える。
15世紀後半には登場していたアクアビットはその起源からワインを蒸留したブランデーのようなものだったとされている。
16世紀になるとヨーロッパ寒冷化の影響でブドウの入手困難から原料を穀物に切り替えるようになり、18世紀には寒冷地栽培に適したじゃがいもが北欧に普及したことで定着し、今では寒い北欧の人々の身体を温めるスピリッツとして親しまれている。

次にコルンというドイツ特産の蒸留酒の存在である。
ドイツ語では穀物のことをコルン(Korn)と呼び、それを蒸留することからコルンブラントヴァイン(Kornbranntwein)という穀物でつくったブランデーを意味していて、略してコルンとされている。
コルンは小麦、大麦、オーツ麦、ライ麦、ソバだけを発酵、蒸留したお酒でいっさい香味づけをしないものだ。
ドイツではコルンのような蒸留酒をシュナップス(Schnapps)と呼び、第89話でも記述したドイツのジン シュタインヘーガーもシュナップスに含まれる。
このシュナップスという名称はオランダ、北欧スカンジナビア諸国、ハンガリーなどの東欧諸国でも使用されるが意味合いで多少違いがある。
他にも東南アジアから中東にかけてつくられる蒸留酒の総称のアラックが存在する。
アラビア語のアラク(araq)という汁の意味からという説が有力である。
初めはナツメヤシの実の汁を発酵、蒸留してつくっていたが、蒸留技術が伝わっていく過程で様々な原料が試され、今日ではいろいろなタイプのアラックがその土地ごとに存在している。
中国には伝統的な蒸留酒の総称で白酒(パイチュウ)が存在する。中国の穀物を発酵、蒸留してつくられることから、高火酒や焼酒とも言われている。おそらくアラックの伝播が影響していると考えられており蒸留により長期保存ができることを知った宋の時代に急速に普及した。
白酒は中国独特の麹を使用し、発酵、蒸留をしているが、広大な国土のある中国各地で造られているため、原料や麹、醸造工程の違いなどもあり、白酒といっても味も香りも同じものではない。

スピリッツは世界各国に蒸留技術伝わっていく中で、その国、その時代、その土地、その人々に適した原料や製造工程に書き換えられ、今も世界中で様々な形で愛飲されている。
アルコール分が高い為、身体を芯から温めるお酒であるが、スピリッツという言葉のもう一つの意味合いから、人々の「魂」をアツくするお酒として存在しているのかもしれない・・・!

2015.10.26 (月曜日)

第93話は「最もセクシーなスピリッツ テキーラ」についてである。

世界中のスピリッツの中で最も個性的でセクシーなお酒と言っても過言ではない。
「テキーラ」がジン、ウォッカ、ラムと並んで4大蒸留酒のひとつとして、数えられるようになったのは1968年のメキシコ・オリンピックがきっかけであり、そこから世界的に知られるようになったのだ。
16世紀、「陽の沈まぬ国」と言われたヨーロッパの強国スペインが足を踏み入れた、北アメリカ大陸の南部 メキシコで、古代アステカの先住民がつくり出したプルケと言われる地酒を錬金術師が発明した蒸溜技術で純度の高いアルコールを生み出した。
それが「テキーラ」である。

「テキーラ」の起源には18世紀にテキーラ村の近くで山火事が起きた時、その焼け跡に黒焦げになったアガベが転がっており、そこから甘い芳香が漂っていたことから潰してその色のついた汁をなめてみると、アガベの成分が山火事の熱で糖分に変化し、驚くほど上品な甘さになっていたという説がある。

「テキーラ」は竜舌蘭というヒガンバナ科に属する多肉植物の一種を原料とし、その茎を糖化、発酵、蒸留してつくられる。
メキシコでは竜舌蘭のことをマゲイ(Maguey)や、アガベ(Agave)と呼んでおり、その樹液を発酵させてプルケ(Pulque)がつくられ、さらに蒸留してメスカル(Mezcal)が生まれる。
「テキーラ」はそのメスカルの一種であり、アガベの種類や地域が特定されている。
「テキーラ」はメキシコ政府の規制で原料にアガベ・アスール・テキラーナを51%以上を使用するというのが定められている。
そんなテキーラの近代的な蒸留が始まったのは1775年で、1902年の植物学者ウェーバーの竜舌蘭の認定後、このアガベ・アスール・テキラーナでつくるメスカルは「テキーラ」という名で売られるようになったようだ。
タイプにはステンレスタンクで短期貯蔵のシャープな香りのものをテキーラ・ブランコ、オーク樽で2ヶ月以上熟成するとほのかな樽香のテキーラ・レポサド、オーク樽で1年以上熟成したものはまろやかな風味のテキーラ・アニェホに分けられる。

テキーラはスピリッツの中ででも若者の間ではストレートで飲まれる事も多い。
グラスに注がれたテキーラを一気に飲み干すと、喉から胸にかけて独特の風味が染み渡る。
そしてカクテルのベースとしても人気があり、マルガリータ、テキーラ・サンライズ、マタドール、モッキン・バード、エル・ディアブロなど個性的でセクシーな香りを女性的に仕上げたテキーラカクテルは世界中でその名を知られている。
今夜も世界中で「テキーラ」を飲んだセクシーな男女から多くのドラマが生まれているのに違いない。

2015.10.19 (月曜日)

第92話は「カリブ海が生んだスピリッツ ラム」についてである。

ラムはカリブ海にある西インド諸島でつくられている。
原料は砂糖を作るためのサトウキビであるが、西インド諸島に自生していなかったサトウキビはコロンブスの新大陸発見とともに南欧から持ち込まれ、カリブ海の気候と適合した事で、西インド諸島は世界一のサトウキビ生産地となったのである。
ラムはサトウキビの絞り汁か、その絞り汁から砂糖の結晶を取った後の廃糖蜜かを発酵、蒸留してつくられる。
ラムの始まりは西インド諸島のひとつであるバルバトス島に由来するという説と、プエルトリコに由来するという説と諸説あるが、少なくとも17世紀にはつくられていたと言われている。

18世紀の大航海時代が始まると、ヨーロッパ各国の植民地政策が盛んになり、西インド諸島も大きな発展を遂げる。
アフリカの黒人を船で西インド諸島に送り、空になった船に糖蜜や廃糖蜜を積み込み、アメリカのニュー・イングランドに運び、それからつくったラムを積みアフリカに戻り、そのラムを黒人奴隷の代金として支払い、再びサトウキビ栽培の労働力となる。
この循環は奴隷貿易が廃止される1808年まで続いた。
こうして植民地史上最も有名な三角貿易が行われたのだ。
こうした歴史的背景の中でラムは世界的なスピリッツとして発展していくのだが、その消費が伸びたのは第二次世界大戦後であり、1970年代後半には「スピリッツはラム」というぐらいの世界的な地位を得る事となった。

ラムの語源にもいくつかあるが、西インド諸島の原住民がサトウキビから蒸留した強烈な酒を飲み、その興奮した様子のランバリオン(rumbullion) という言語からこの語頭の部分が残ってラム(Rum)という名前になったというのが有力であり現在、世界共通で一般的には英語のラム(Rum)が使われている。
他にはフランス語でロム(Rhum)、スペイン語でロン(Ron)、ポルトガル語でロム(Rom)、イタリア語でルム(Rum)と、ヨーロッパ列強国の植民地としての名残りからそれぞれの統治国の表記になっているが、いずれも英語のラム(Rum)からきていると考えられる。

ラムは一般的にサトウキビ特有の甘い香りや風味が特徴であるが、発酵法や蒸留法の違いによって、風味の軽いライト、風味の重いヘビー、その中間のミディアムタイプに分けられ、色ではホワイト、ゴールド、ダークに分類され、それぞれ香りや味わいなどがある。
『わがダイキリはフロリディータで、わがモヒートはボデギータで』と言ったのは酒豪で知られるアメリカの小説家 アーネスト・ヘミングウェイである。
ヘミングウェイだけでなく、Barでは今なお、ラムベースのロマンティックなカクテルが多くの人々に愛されているのは間違いない。

2015.10.12 (月曜日)

第91話は「生命の水 ウォッカ」についてである。

ウォッカとは大麦、小麦、ライ麦、ジャガイモなどの穀物を原料として発酵、蒸留した後、 白樺の炭などで濾過してつくる蒸留酒の事である。
多くは他の蒸留酒よりもクセがないが、 ウォッカは軽快な中にも原料の穀物由来の繊細でかすかな味わい、爽快感と白樺の炭濾過によるまろやかさが感じられる酒である。
フレーバーを付けたウォッカのように香味が 付けられているものもいろいろ存在する。
ウイスキーやジンなどの他のスピリッツとアルコール度数は変わらないが、中にはアルコール度数が90度というウォッカもあるので、一般的に「ウォッカ=強い」というイメージがあるのだろう。

ウォッカがいつ頃から生まれたのかは定かではないが、モスクワ公国の1283~1547年の記録にはロシアの地酒として、農民の間で飲まれるようになったと残されているので、この時代にはすでに飲まれていたことは確かである。一方で隣国ポーランドでは11世紀頃から存在していたというのもあり、ウォッカの起源にも諸説あるようだ。
12世紀前後には東ヨーロッパで生まれていたと考えれば、ウイスキーやブランデーよりも歴史が古く、ヨーロッパで最初にできた蒸留酒と言えるものかもしれない。
当時はライ麦のビールかハチミツのミードを蒸留して作っていたのでないかと推測され、そして蒸留して生まれたお酒は「ズィズネーニャ・ワダ(Zhiznennia Voda 生命の水)」と呼ばれていた。
やはりウォッカの名前も錬金術から生まれた不老長寿の酒という意味で 「生命の水」が由来している。
やがてその言葉が単に「ワダ」や「ヴァダー」呼ばれるようになり、16世紀イワン雷帝の頃に「ウォッカ(Vodka)」に変わっていったと考えられている。
もちろん誕生時は連続式蒸留器が発明される前なのでウイスキー 同様に単式蒸留器で蒸留していたため、雑味も多く、香草などので香りづけなども行われていて、その名残が現在ポーランドの人気ブランド・ズブロッカ(ズブロッカ草で風味づけしたウォッカ)であろう。

1810年、ロシアの西端 セントペテルスブルグの薬剤師であったアンドレイ・アルバーノフがウォッカを白樺の炭で濾過する方法を開発し、それをウォッカのトップブランドの創業者ピョードル・スミノフがウォッカ製造にこの方法を採用し、ウォッカは活性炭濾過によるクセのないすっきりしたお酒という個性を確立させたのだ。さらに19世紀後半になり、連続式蒸留器が導入され、さらにクセのない繊細でドライな仕上がりとなり、現在のウォッカのような味わいが完成した。
ロシアや北欧の地酒でしかなかったウォッカもアメリカ禁酒法によって広まり、第二次世界大戦後にはカクテルベースとして世界各国で人気が高まり、それにともなって生産量も一気に伸びていったのだ。

「Vodka Martini,Shaken,not stirred」
(ウォッカ・マティーニを。ステアでなくシェークで)というのは 映画「OO7」の初期の頃からの主人公ジェームス・ボンドの決め台詞である。
本来はジンをベースにして、ステアでつくられるマティーニをウォッカベースで、 更にシェークして出せという注文でこの映画の代名詞的なものになっている。
その繊細で、飾らない味わいを好んで、今夜もどこかのBarで ボンドのような紳士がウォッカ・マティーニを飲んでいるのだろう・・・

2015.10.05 (月曜日)

第90話は「ジンの栄光」についてである。

19世紀以前は、労働者の酒、不道徳な酒というイメージが強く、貴族や健全な者に飲まれることはなかったジンは20世紀に入るとカクテルのベースとして上流階級の間でも親しまれるようになった。

第89話で前述したようにジンは「アメリカ人が栄光が与えた」と言われるように数々のジンカクテルを生んだのはアメリカという建国してまだ歴史の浅い自由の国である。
そしてジンの地位を圧倒的に高めたのはカクテル「マティーニ」である。
ニューヨークで生まれた(※マティーニの誕生には諸説ある)マティーニはシンプルな材料とつくり方であるがゆえにその奥深い味わいがアメリカで人気に火がつき、当時はマティーニを飲まないものは酒を愛する資絡がないとまで言われたほどである。
一体どこまでがマティーニと呼べるのかという論争があるくらい最も豊富なバリエーションを持つカクテル「マティーニ」はカクテルの王者となり、貴族が決して飲まなかったジンの地位を上げることにつながったのだ。

マティーニだけでなく、ショートカクテルではギムレット、ホワイトレディー、ブルームーン、ロングカクテルではシンガポール、ジンフィズ、オレンジブロッサム、ジンライムなどとどんなに時が経とうとも世界中のBarではこれらのジンカクテルが人気であり、今なお飲まれている。

これはジンというスピリッツの個性的なだけでなく、そのドライさや味わい深さ、そしてジンというお酒の歴史や辿ってきた軌跡も含めて、人々を惹きつける何かを持っていることは言うまでもない。


2015.9.28 (月曜日)

第89話は「スピリッツ ジン」についてである。

「ジンはオランダ人が生み、イギリス人が洗練し、アメリカ人が栄光を与えた」というのは「ジン」というお酒の歴史を語る時に必ず言い表せられる。

ジンとは大麦やライ麦、ジャガイモといった穀物を発酵させた蒸留酒のことを指し、ウォッカ、ラム、テキーラと共に四大スピリッツに数えられている。

ジンの誕生は古く、11世紀頃にイタリアの修道士がジェニパーベリー(杜松の実)を主体として蒸留酒を作っていたというのが記録として最も古いものであろう。
それから時は流れ、1660年にオランダで薬用酒として開発され、長い歴史の中で、ヨーロッパに浸透していったスピリッツがジンである。

1660年、オランダの最盛期に オランダにあるライデン大学医学部教授であるフランシスクル・シルヴィウスがジュニパー・ベリーを使用して解熱効果や利尿効果がある薬用酒を開発し、ジュニエーブル(ジュニパー・ベリーのフランス語)と名付けた。その味わいが美味しいと評判となり、市民の間で広まったと言われている。
この当時の蒸留酒は簡単な構造のポット・スチルでつくられており、雑味のある味わいで、オランダ国民の間ではオランダ語に訳され「イェネーフル」や「イェネファー」と呼ばれ愛飲された。

1689年、オランダ貴族のオレンジ公ウィリアムがイングランド国王として迎えられた時にイギリスにこのお酒が持ち込まれ、すぐに人気に火が付き、イギリス全土に普及するのに時間はかからなかった。
その際に英語に訳され「ジェネーブル」となり、そこから「ジン」と短く呼ばれるようになったようだ。
19世紀半ばとなって連続式蒸留器が発明されたことから、これまでに比べて飛躍的に雑味が少なくなり、洗練された味わいに様変わりした。
まず連続式蒸留器でアルコール度数の高いスピリッツを作った後にジェニパーベリーなどのボタニカルフレーバーを加えて、単式蒸留をするというイギリス独自の製造方法でつくられたジンは「ロンドン・ジン」と呼ばれ、柑橘系の爽やかな香りが特徴的で、カクテルのベースとして世界を代表するものである。
本場イギリスでは他にも製法の違うジンがあり、オールド・トム・ジンと呼ばれる昔ながらの甘口のものや、プリマス・ジンと呼ばれる香りの強さが特徴で、18世紀頃からイングランドの南西部にあるプリマスで作られており、イギリス海軍の軍港があるために海軍御用達と言われているものである。

他のジン生産国ではオランダとドイツが有名であり、オランダのものはジュネヴァやイェネーフェルとも呼ばれ、イギリスと違い、ポットスチルで蒸留するため香味が濃厚で、麦芽の香りが残ることからストレートで飲まれることが多い。
ドイツのものは「シュタインヘーガー」と呼ばれ、生のジュニパー・ベリーを発酵させてから蒸留するため香味は穏やかなのが特徴である。

ジンをベースにしてつくられるジントニックはBarで一番飲まれているカクテルであると言える。
バーテンダーが学びの為にBarを訪れる時にはジントニックを飲む事も多い。
その理由にはそれぞれのBarのこだわりや想いをスピリッツの中でもジンをベースにした最もシンプルな「ジントニック」というカクテルで表現いるからである。

今夜もBarカウンターで人々はジントニックを飲み、洗練されたジンによって心を洗い流されることだろう。


2015.9.21 (月曜日)

第88話は「コニャックとアルマニャック」についてである。

ブランデーというのはフルーツを原料とした蒸留酒の総称であるが、主としてブランデーという時はブドウからワインをつくり、それを蒸留し、オーク樽で長期間熟成したグレープ・ブランデーを意味する。
ブドウ以外を原料にした場合、リンゴを原料にしたものはカルバドス、サクランボを原料にしたものはキルシュヴァッサーと呼ばれ、ブランデー以外の名称で呼ばれる。

フランス国内でコニャック、アルマニャックを名乗れるブランデー以外のグレープ・ブランデーを「フレンチ・ブランデー」と総称されている。
他にもフランス国内の有名ワイン産地の余剰ワインや、ワインのオリを蒸留したブランデーなどもある。
そしてフランス以外にもドイツやイタリア、スペイン、アメリカ日本などの国々でブランデーはつくられている。

その中でフランスのブランデーは質、量ともに世界一のブランデー生産国であり、コニャック地方とアルマニャック地方は共に二大ブランデー産地と言われており、今なお世界中から称賛を得ている。

「コニャック」はフランス南西部にあり、ボルドー地方の北に位置している。
「コニャック」の名で製品化されるブランデーはブドウ品種、生産地区、蒸留法、熟成表示などで厳しい規制がある。
土壌には石灰質が多く含まれ、糖分が少なく、酸味が強いブドウの栽培に適しておりそれが素晴らしいブランデーを生むのだ。
コニャック伝統的な銅製のポットスチルを用いた単式蒸留を2回行い、オーク樽で熟成するが、熟成の若い原酒と古い原酒をブレンドして製品化され、コントと呼ばれる熟成年数の独自の単位を用いて、コント2のものをスリースター、V.Sと表記、コント4以上をVSOP、Reserveと表記。コント6以上のものをXO、EXTRA、NAPOLEONとメーカーそれぞれで表記して格付けがなされている。
「アルマニャック」はボルドー地方の南に位置し、ピレネー山脈に近い地域で、昔はガスコーニュと呼ばれた地方の一部。
蒸留の歴史は南から北へ伝わったことが解明されており、その事からコニャックよりアルマニャックの方がブランデーづくりの歴史は古いと言える。
現在はアルマニャックもコニャック同様に原産地呼称管理法で厳しく管理がされている。
コニャックに比べ、アルマニャックは風土や伝統的なアルマニャック型アランビックを使った蒸留法などや、熟成法が異なりフレッシュな味わいがある。

ブドウには穀物にはない多様な香りや味わいの成分が含まれており、この成分こそブランデーのフルーティーな甘い香りや複雑かつきわめて細やかな味わい、華やかでエレガントな芳香を生むのだ。それが「蒸留の女王」と言われる所以であろう。
「一杯のコーヒーはインスピレーションを与え、一杯のブランデーは苦悩を取り除く」と言ったのは音楽家のルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンである。ベートーヴェンがコーヒーをこよなく愛した事で書かれている名言であるが、お酒ではブランデーに頼っていたのがうかがえる。
現代においても仕事や恋愛、人生の悩みを打ち消すために多くの人々の中で「ブランデー」が必要とされているのかもしれない・・・


2015.9.14 (月曜日)

第87話は「ブランデーの歴史」についてである。

やはりブランデーの起源も諸説あり、その始まりを説明することができない。
ブランデーが最初に文献に登場するのは13世紀中頃のことであり、スペインの医者でもあり錬金術師であったアルノー・ド・ヴィルヌーヴがワインを蒸溜したのが始まりだと言われており、スペイン、イタリアドイツなどのヨーロッパ各地で蒸留した記録が残っているようだ。
当時は薬酒として使われ、ラテン語でアクア・ビテ(Aqua Vitae<生命の水>)と呼ばれていた。
その名残りからフランス語で訳した「オー・ド・ヴィー<生命の水>」という言葉が現代のフランスでもブランデーなどの蒸留酒の意味で使われている。

後にブランデー大国となるフランスに伝藩したのは14~15世紀頃とされていて、ピレネー山脈を越えて、アルマニャック地方へ1411年に伝わったとされている。
その後北側にあるコニャック地方にも伝わったのは16世紀頃とされ、その当時はヨーロッパは寒波に襲われたり、宗教戦争の影響もあって、ワインの品質が落ちてしまった。
また当時のフランス政府は税制改正を行い、アルコール度数に関係なく、ワインの量に対して重税をかけるようになったのだ。
そんな中オランダ商人達の苦肉の策として、ワインを蒸溜して輸送することなった。
これが偶然にも美味しいと評判になり、フランス各地へ蒸留の技術は広まり、高い評判が得られたのだ。
さらにそこから最初の企業がコニャックで操業をはじめ、本格的な産業へと発展するのは17世紀半ばの事である。
17世紀に入りブランデーの生産が本格化し、1713年にルイ14世がブランデーを保護する法律をつくったことによりヨーロッパ宮廷の貴族達を虜にし、「王侯の酒」の地位を築き上げた。

蒸留したお酒をコニャック地方では「ヴァン・ブリュレ<焼いたワイン>」と呼んでいたので、オランダ商人達はこの言葉をオランダ語に直訳し、ブランデウェイン(Brandewijn<加熱したワイン>)と呼び、そこから輸出先の英国に持ち込まれた時にブランディワイン(Brandywine)に変わり、いつしか ワイン(wine)が取れ、ブランディ(Brandy)という名が生まれ、ヨーロッパ全土に広まっていったのだ。

ウイスキーが「蒸留の王」なら、ブランデーはその香り高き華やかさからまさに「蒸留の女王」と呼ばれるのが然るべきである。
今夜もまたこの女王の魅力によって虜にされた者達がBarに訪れるのだろう。

2015.9.07 (月曜日)

第86話は「ジャパニーズ・ウイスキーの飛躍」についてである。

第85話で前述したようにウイスキーの本場スコットランドを凌ぐウイスキー造りの技術や世界市場の開発力がジャパニーズ・ウイスキーを世界トップクラスに押し上げ、国際的なスピリッツやウイスキーのコンテストで賞を受賞し、高い評価を得ている。
そんな世界中の熱い視線が注がれているジャパニーズ・ウイスキーには今現在、8つの蒸溜所がある。

京都の天王山の麓に位置し、竹林に囲まれ桂川、宇治川、木津川の合流する名水の里と知られ、個性的で多彩な原酒を造り分けるジャパニーズ・ウイスキー第1号の蒸溜所で、サントリー創業者の鳥井信治郎がその礎を築いた山﨑蒸溜所。
山梨県南アルプス・甲斐駒ケ岳の山麓に広がる大自然の中に位置し、森の自然と花崗岩の地層に磨かれた軟水を仕込み水として、森に包まれた貯蔵庫で熟成される事から「森の蒸溜所」と言われる白州蒸溜所。

ウイスキーの父・竹鶴政孝氏が本場スコッチ・ウイスキーを日本で造るのに理想とした海にも近く、山や余市川に囲まれ、創業当時から続く石炭直火焚き蒸溜による力強く重みのあるウイスキーを造り出す余市蒸溜所。

宮城県の広瀬川と新川が合流する緑豊かな峡谷に位置し、竹鶴政孝氏が余市とは対極の華やかで柔らかなモルト原酒を造るために探し出した森と川霧に包まれた宮城峡蒸溜所。

長野県中央アルプスの山並みが広がる駒ヶ岳山麓に位置し、その冷涼な気候と風土、そして伏流水でウイスキーづくりをスタートさせたが、しばらくの間休止しており、2011年に再開された日本で標高の最も高い信州マルス蒸留所。

静岡県の富士山の麓に位置し、長い年月をかけて濾過された富士山麓の伏流水を使用し、独自の蒸溜方と小樽熟成法をで、澄んだ味わいと甘美な樽熟香のウイスキーを生み出す富士御殿場蒸溜所。

埼玉県秩父市に位置し、荒川の源流水のある気候と風土と地元産の大麦も使用したフロアモルティングもしており、数々の賞を受賞し、世界に評価されている秩父蒸溜所。

兵庫県の瀬戸内海に面した明石市に位置し、六甲山系の地下水に恵まれ、日本酒、焼酎造りをしながら原料にこだわり大量生産をしない頑固な地ウイスキーを生み出している江井ヶ嶋酒造蒸溜所。

ジャパニーズ・ウイスキーが世界に名を馳せ、かつてない飛躍しているのは創業から貫かれた情熱やこだわりのある個性的なウイスキーを生み出す8つの蒸溜所があるからに他ならない。

2015.8.31 (月曜日)

第85話は「ジャパニーズ・ウイスキーの始まり」についてである。

ジャパニーズ・ウイスキーの歴史を語る上で、この二人の人物を忘れる事は出来ない。それが「鳥井信治郎」と「竹鶴政孝」である。

日本にウイスキーが最初に伝えられたのは1853年、マシュー・ペリー司令長官率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀沖に来航した年とされている。

明治に入り、欧米文化が入ってきた日本人に洋酒への興味が広がったのは言うまでもない。
そして欧米文化を伝える洋酒のひとつとして、ウイスキーが最初に輸入されたのはの1871年、明治維新後のことである。
輸入元となったのは薬酒問屋が多かったがこの頃、国内ではアルコールに香料や色素などを混ぜた模造ウイスキーが出回り、本場のウイスキーの味を知るのは一部の人だけであった。
また本場のウイスキーもまったく消費は伸びず、明治末でも洋酒は酒類市場に広がらなかったという事実がある。

時代が流れ1911年 、輸入品に関税が課せられるようになると、国民達の間で、国産のウイスキーを望む声が大きくなった。
そんな中、本格ウイスキーづくりを目指していた寿屋(現ビームサントリー)創業者の鳥井信治郎氏と、スコットランドでウイスキー製造の技術を習得した竹鶴政孝氏(ニッカウイスキー創業者)の二人が出会い、ジャパニーズ・ウイスキーの歴史をスタートさせる事となる。
本格ウイスキーの国内製造に動き出していたが、ウイスキー製造の技術を欲していた鳥井氏と、ウイスキー製造の技術を持っていたが、勤めていた会社のウイスキー製造が頓挫し、行き場のなかった竹鶴氏の運命的な出会いであり、この2人が出会わなければ、今日のジャパニーズ・ウイスキーはなかったと言っても過言ではない。

国産ウイスキーづくりを夢見ていた鳥井氏と、所長として招かれた竹鶴氏は1923年に京都郊外・山崎峡で日本初のモルト・ウイスキー蒸留所、寿屋 山崎工場(現在の山崎蒸留所)の建設を始め、ウイスキーづくりを実現した。
日本に初めてウイスキーを輸入してから50年が経ってからの事である。
その後1929年にこの蒸留所から国産ウイスキー第1号の「白札」が誕生した。価格は当時の輸入ウイスキーと同等の高価であり、スコッチ・ウイスキーを意識し過ぎてピートを炊きすぎたせいで、「焦げ臭くて飲めない」との声もあり、当初は評判が悪かったようであるが、8年後には「角瓶」が完成し、熟成を経た風味豊かな原酒の貯蔵量も充実してきたのがこの時代なのである。
この後 、第二次世界大戦前には東京醸造や竹鶴氏が寿屋を退社して創業した大日本果汁などがウイスキー事業に乗り出した。
第二次大戦後、高度経済成長と共に国内の生活の洋風化が進み、ウイスキーは本格的に人々の間に浸透し、オーシャン(三楽)やキリン・シーグラムなど数多くのウイスキー業者が参入してきたのだ。
そして日本のウイスキー業界全体も大きな成長を遂げ、今では世界5大ウイスキーのひとつとして独自の個性を確立するようになったのだ。

スコッチ・ウイスキーを手本にして生まれたジャパニーズ・ウイスキーの歴史は世界5大ウイスキーの中でも最も浅く、100年にも満たない。
だが作り手の高い技術力とブレンド力、そして繊細な味わいによって、今や世界で最も評価されているウイスキーと言えるのではないだろうか。


2015.8.24 (月曜日)

第84話は「WHISKEYとWHISKY」についてである。

ウイスキーにはふたつの表記が存在している。
これはウイスキー発祥の地というアイリッシュの誇りが生み出したものであると考えられる。

5大ウイスキーのジャパニーズを語る前にウイスキーのふたつの表記について話をしておきたい。
アイリッシュ・ウイスキーの表記は「WHISKEY」で、スコッチ・ウイスキーの「WHISKY」とは違うものだ。
19世紀頃、当時からアイリッシュとスコッチの間でウイスキー発祥の地がどちらかという論争があったのは想像出来る。
そこでアイルランドの首都ダブリンのウイスキー蒸留業者がスコッチ・ウイスキーとアイリッシュ・ウイスキーは違うものだと差別化するために表記に「E」を入れた。
それをアイルランドの他のウイスキー蒸留業者も習い、アイリッシュ・ウイスキーにはいつの間にか「WHISKEY」と綴るようになったと言われている。

ところで、アメリカのバーボン・ウイスキーの表記はほとんどが「WHISKEY」のスペルを使っている。
これはケンタッキー州のバーボン・ウイスキー蒸留業者にはアイルランドからの移民が多く、「E」と綴るようになったのだと考えられる。
ただアイルランド系でなくても、「E」と綴られているバーボン・ウイスキーもあり、全てではない。また別の説もあり、アメリカ開拓時代にはバーボン・ウイスキーは貴重であり、保管するのに鍵(KEY)をかけていたから、「WHISKEY」と言われるようになったとか・・・(これは想像の域を出ないものである)ちなみに「E」が入ってないバーボンウイスキーもいくつか存在する。

ではジャパニーズ・ウイスキーやカナディアン・ウイスキーはと言うと、「WHISKY」と「E」の無い綴りである。
日本で最初にウィスキーづくりを手掛けた蒸留業者がスコッチ・ウィスキーをお手本として、日本のウィスキーづくりをスタートさせたためであり、ジャパニーズ・ウイスキーはスコッチ・ウイスキーの流れを汲んでいたというのがわかる。
そしてカナディアン・ウィスキーは元々英国領であったからだと考えられる。
「WHISKEY」と「WHISKY」、永い年月どちらに統一される訳でもなく、ふたつの表記が残った。
そしてこれからも、そのウイスキーづくりへの誇りとして、ふたつの表記が残り続けるのだろう。


2015.8.17 (月曜日)

第83話は「アイリッシュ・ウイスキー」についてである。

ウイスキー発祥の地としてはアイルランド説が有力である。
だからこそどんなに時が経っても、アイルランド人のウイスキーに 対する誇り高き魂の灯が消える事はないのだ。

ウイスキー発祥の地がどちらであるかはアイリッシュ・ウイスキーと、スコッチ・ウイスキーの間で今なお繰り広げられている論争ではあるが、どちらも起源となった歴史的記録は残されていないため明確に答えを出す事は出来ない。
ただ前述したようにウイスキー発祥の地としてはアイルランド説が有力である。
アイリッシュ・ウイスキーの起源は6世紀頃と言われていて、アイルランドの修道僧が中東で生まれた錬金術による香水の製造に使われていた蒸留技術を持ち帰り、 それを修道院での酒づくりに応用した事がウイスキーの始まりだとされている。
ヨーロッパ中西部に起った古代民族ケルト族のうち、海を渡ってアイルランドからスコットランドへ移住した部族であるゲール族の移住とともに蒸溜技術が伝播した事からウイスキーの前身であるお酒の発祥もアイルランドからスコットランドという見方が強力なのだ。

アイリッシュ・ウイスキーはイギリスのブリテン島の西に位置するアイルランド島でつくられるウイスキーのことである。
アイルランド島は現在、政治的にはアイルランド共和国と北アイルランド(イギリス)で二分されているがウイスキーに限ってはこの島でつくられるすべてをアイリッシュ・ウイスキーと称している。
だから北アイルランドに位置する、世界最古の蒸留所であるオールド・ブッシュミルズ 蒸留所もアイリッシュ・ウイスキーに分類されるのだ。

アイリッシュ・ウイスキーの生産は20世紀初頭には世界のウイスキー市場の半分以上を占めていたがその後、アメリカ合衆国で施行された禁酒法により生産規模が半減したことで、一気に衰退の一途をたどった。またイギリスからの独立を求めアイルランド建国のために起こったアイルランド内戦の影響で、多くの小規模蒸溜所が閉鎖に追い込まれた。
戦後、独立を獲得したアイルランド自由国(アイルランド共和国の前身)は独立の報復としてイングランドとその植民地市場から締め出され、それによりアイルランドのウイスキー蒸留業者が淘汰されていったという苦難の歴史があり、今現在稼働しているのは4つの蒸留所のみである。

第二次世界大戦後にようやくライトなタイプのカナディアン・ウイスキーの伸びとともに香り高きライトタイプウイスキーのひとつとして広く飲まれるようになってきた。
そしてピートを焚かない麦芽のつくり方や3回蒸留などというスコッチの製造と違い、 伝統的な製法を受け継ぎ、ウイスキー発祥の地であるという誇りを持ち続けているからこそ今も世界中で、アイリッシュ・ウイスキーという確固たる地位が存在するのだろう。


2015.8.10 (月曜日)

第82話は「カナディアン・ウイスキー」ついてである。

カナディアン・ウイスキーは隣国アメリカの影響を受け、 大きく発展を遂げたが、今や世界中でこの軽やかなウイスキーが親しまれている。

カナディアン・ウイスキーはカナダでつくられるウイスキーの総称で、 世界の5大ウイスキーの中でもっとも軽快でマイルドな風味を持っているが、 その背景には激動の歴史を生き抜いた誇り高き魂を垣間見る事が出来る。
カナダのウイスキーづくりは17世紀半ばには始まっていたとされている。
ウイスキー輸入量の削減を目的として蒸留可能な醸造所が設立されたため、 カナダで蒸留が始まった事をカナディアン・ウイスキーの起源とすることができる。
現在のモントリオール近郊のビール醸造所で蒸留の装置が併設されていたと 言われている。
1776年にアメリカの独立戦争が始まると、独立に批判的だった イギリス系の農民達は北のカナダに移住し、その地で穀物の生産を始めた。
ところが穀物の生産過剰が起こったため、その処理の手段として製粉所が 蒸留所の生産を始め、中には本格的に製粉業から蒸留酒業へと転換を 始めるところが出てきて、そこでつくられたウイスキーがアメリカでも 売られるようになった。一説によれば、1840年代には200以上の ウイスキーや蒸留酒の蒸留所が稼動していたとも言われる。

19世紀後半になるとライ麦を使ったかなりの重いウイスキーから 連続式蒸留の導入とトウモロコシを多量に使う事により、軽いタイプの ウイスキーへと変貌していったがカナディアン・ウイスキーの発展に 大きな躍進が起こるのは20世紀に入ってからである。
トロント、モントリオール、オタワなどの街道筋、五大湖のエリー湖や オンタリオ湖、セントローレンス運河沿いに蒸留所ができた。
当時のカナダでつくられるウイスキーは「One day whisky」と呼ばれる 劣悪な蒸留酒が多かったが、カナダで法律が整備された近年はどのブランドも 一定以上の品質のウイスキーとなっている。
そして隣国アメリカの禁酒法の時代に 一気に生産を伸ばした。

アメリカの禁酒法施行により、カナダはアメリカのウイスキー倉庫としての 役割を持ち、禁酒法が施行されている間、カナダのウイスキーも他の国と同様に 表面上は輸入禁止であったが、他国と違ってカナダは地理的に近く、 それどころかカナダとアメリカ合衆国は長い区間に渡って国境を接していると いう地の利を活かし、容易に密輸ができたのである。
結果としてカナダのウイスキーは禁酒法時代にアメリカ合衆国へと大量に密輸され、 確固たる評価と人気を獲得することになり、莫大な利益を得たのである。
そして禁酒法廃止後も良質なウイスキーの生産には長い熟成期間が必要であるため、 アメリカ国内の良質なウイスキーの出荷をすぐに行うことが出来ないアメリカ市場に 広く浸透していった。

1980年以降は蒸留酒全体の低迷とともにカナダにおける蒸留所の閉鎖や操業停止が 続いたが、マイクロ・ディスティラリーと呼ばれる小さな蒸留所や、国内唯一の シングルモルト蒸留所も誕生し、新しいカナディアン・ウイスキーの道が開かれていった。
そして近年は軽快でマイルドなカナディアン・ウイスキーという確固たる地位を作り上げ、 世界的に飲まれる5大ウイスキーへと成長していったのだ。


2015.8.03 (月曜日)

第81話は「アメリカン・ウイスキーの復活」ついてである。

アメリカン・ウイスキ―ほど、幾度となく訪れた苦難を乗り越えた お酒があるだろうか。
だからこそアメリカン・ウイスキーには夢があるのだ。

第二次世界大戦後の経済復興を伴い、バーボンの生産は再び活性化して、 世界中にその販売市場を広げ、戦後の日本への供給も激増した。
同時にスコッチ・カナディアン・ジャパニーズなどとの競争も激化し、 1960年代に入り、バーボンの需要は減り、蒸留所は生産過剰 状態に陥った。
そのことで多くの蒸留所が企業買収、経営統合など 厳しい競争に曝されることとなった。
そして世界のウイスキー生産は大きく変化し、 ストレートからブレンデッドへと展開していった。
そうなったのは禁酒法時代に大量に出回ったカナディアン・ウイスキー などの柔らかい香りや味わいに慣れてしまった米国市民がブレンデッドを 好んで飲むようになったからである。
世界的に経済が上向きの中でウイスキー生産が絶対量としては 増加していったが、生産過剰な状態から抜け出そうと、少量生産の 高級品への志向が高まってきた。
そんな中4~6年間の熟成が常識で あったが、生産過剰から次第に長期熟成のウイスキーもつくられるようになった。
1980年代にバーボンに注目が 集まり、「スモールバッチ(少数生産)」で希少価値の高いバーボンは 重宝され、〝手作り〟〝高品質〟といったコンセプトのもとにつくられる ものは熟成年数も長くなり、通常のバーボン・ウイスキーとは 全く違ったものに仕上がり、人気を得ていった。

1990年代前半から2000年にかけて、再び企業同士の統廃合が進み、 蒸溜所はその多くが閉鎖され、2010年頃には9社が操業を続ける のみとなったが、自社ブランド以外にウイスキー原酒の供給をする 蒸留所があり、樽ごと買った原酒を独自に熟成をして、販売する ブランドがあることから、アメリカン・ウイスキー銘柄は数百種類ほど 存在するのだ。
ここ数年のクラフトバーボンのブームもあって、2015年現在は 小さな蒸留所を含めれば、数百カ所以上存在し、復活の兆しが見えている。
こうして衰退と復興を繰り返したアメリカン・ウイスキーは また世界を席巻するほどの大きな流れを引き寄せていることは間違いない…


2015.7.27 (月曜日)

第80話は「アメリカン・ウイスキーの衰退」ついてである。

アメリカン・ウイスキーの歴史を語る上でこの「出来事」を省く事は出来ない。
それが悪名高い「禁酒法」である。

1865年の南北戦争後、急速な経済発展にともなって 連続式蒸留機が使われるようになり、 その生産量は大きく 伸び、アメリカのウイスキー産業は順調に発展していった。
ところが20世紀初頭にその発展に大きな弊害が 生じる暗黒時代を迎える事になる。

「禁酒法」とはアメリカ合衆国憲法下において施行され、第一次世界大戦が終結して まもなくの1920年にアメリカ全土で消費のためのアルコールの製造、販売、輸送が 全面的に禁止された法律である。
およそ14年も続いたこの法によって、 アメリカという国に大きな混乱を招いたのは言うまでもない。
禁酒法が起こった背景にはドイツ系移民のビール業界を独占する事への反発や、 植民地時代からの根強いピューリタニズム、女性の発言力が強まったことなどがある。

この「禁酒法」によって、アメリカ国内の蒸留所は一部の医療用アルコールとして 製造が許されていた一部の蒸留業者を除き、ほとんどが閉鎖されてしまったことで アメリカン・ウイスキーの衰退は深刻化した。
禁酒法が施行されている間、密造業者たちは闇に潜み、月明かりのもとで密造したため、密造業者はムーン・シャイナ―、密造酒の事をムーン・シャインと呼び、密造業者が暗躍した。
そして密造、密売が広がり、アルカポネを代表とする巨大な利益を上げる マフィアの勢力拡大を助長してしまい、治安が悪化してしまった。
街には「スピーク・イージー」と呼ばれるもぐり酒場が激増し、質の悪い酒も大量に 出回ることになり、死亡者や失明者といった被害が数千人にも及ぶと言われている。
皮肉なことにその間にカクテルもいろいろと普及し、アメリカ独自の酒文化が生まれる事となる。
そういった事から「禁酒法」は「ザル法」「高貴なる実験」と揶揄された。

1933年に禁酒法撤廃とともに、衰退したアメリカン・ウイスキーはすぐに復興へと向かい、閉鎖していた蒸留所もウイスキーづくりを再開した。
その際に蒸留法も効率の良い連続式蒸留機だけに変わり、単式蒸留機はほとんど姿を消した。(今現在はアメリカでも単式蒸留機でつくる蒸留所も存在する)
禁酒法撤廃後も州によっては州法としての禁酒法が残り、復興が遅れた地域もある。
また1941年に勃発した第二次世界大戦が逆風となり、アメリカン・ウイスキーの復興が軌道に乗ったのは1950年代に入ってからの事である。


2015.7.21 (火曜日)

第79話は「バーボン・ウイスキーの誕生」ついてである。

スコッチ・ウイスキーが発展していくのと時を同じくして、新大陸のアメリカでも アメリカン・ウイスキーという偉大なお酒が誕生した。
そのアメリカン・ウイスキーの中でも、量産され、世界中に愛されているのが バーボン・ウイスキーなのである。

アメリカ大陸が発見され、ヨーロッパから開拓者としてやってきたオランダ人が 現在のニューヨークにて、西インド諸島の糖蜜を使用してラムがつくられ、 その後ヨーロッパからの移民が次々と増え、次第にライ麦や穀物を使った ウイスキーもつくられるようになる。
こうしてアメリカン・ウイスキーが生まれた。
これはウイスキー蒸留技術を持ったアイルランドやスコットランドからの 入植者がペンシルベニアやバージニアなどに住みつき、彼らは18世紀には その地でライ麦や大麦を育て、ウイスキーづくりが始まったことによるものだ。

1791年独立戦争後のアメリカ連邦議会が財政確保のためにウイスキーに 重税をかけたため、東部の多くの蒸留業者の間で暴動が起き、蒸留業者や農民は 税金を逃れるためにアメリカ西部の玄関口であるのケンタッキーや その北のインディアナ、南のテネシーの地に逃れ、そこで偶然にも良質の水と トウモロコシを得て、ウイスキーづくりが盛んになっていった。
「バーボン・ウイスキー」という名称の由来についてはアメリカ独立戦争において、 独立に貢献したフランス“ブルボン”王朝の功績を称え、「バーボン」を ケンタッキー州の地名に採用している。このケンタッキー州のバーボン郡でつくられた ウイスキーは土地の名をとってバーボン・ウイスキーと呼ばれるようになったのだ。
本格的にウイスキーがつくられるようになったのは二人の男が 大きく関わっている。ケンタッキー州のバーボン郡で1783年に エヴァン・ウィリアムズ(Evan Williams)がウイスキーを蒸溜したという 記録が残っている。
そして現在のようなトウモロコシを原料にしてつくるように なったのは1789年ケンタッキー州のジョージタウンでハプティスト派の 牧師エライジャ・クレイグ(Elijah Craig)が先駆者と言われている。

バーボン・ウイスキーの特徴的な製法である熟成の際に樽の内側を焦がす理由に ついては諸説あるのだが、バーボンの祖の一人、クレイグ牧師が樽を置いていた 鶏小屋の火事によって偶然にできたという説や、最初から内側が焦げていた樽を 偶然使用したという説、また魚が詰めてあった樽の生臭さを消すために内側を焦がしたという説などあるが、未だに明らかにはなってない。

ただ分かっているのは偉大な「バーボンの祖」である二人の名前を冠した
バーボン・ウイスキーが今も世界中で飲まれ、語り継がれている。


2015.7.13 (月曜日)

第78話は「ブレンテッドウイスキーの誕生と発展」ついてである。

ウイスキーというちっぽな地酒はどうして世界中に広がることになったのだろうか・・・
その答えはブレンデッド・ウイスキー誕生に隠されている。

ローランド地方の大規模蒸留業者は蒸留の効率化を図り、1826年には、 スコットランドの蒸留業者ロバート・スタイン(Robert Stein)が連続式蒸留機を 開発した。
そして1831年にはアイルランドのイーニアス・コフィー(Aeneas Coffey)がコフィー式連続式蒸留機を完成させ、その後さらに改良が進み、ローランド地方の あちこちにグレーン・ウイスキーの蒸溜所建設が行われていったのである。
1860年にはエジンバラのウイスキー商のアンドリュー・アッシャー(Andrew Usher) によって、従来の単式蒸留機による個性の強いモルトウイスキーと 連続式蒸留機によるまろやかで飲みやすいグレーン・ウイスキーをブレンド したことで、洗練された口当たりの良い味と香りを持った新たなウイスキーが 誕生したのだ。
これがブレンデッド・ウイスキーである。

ブレンデッド・ウイスキーの味わいや飲みやすさが好評となったことで、 蒸留業者の参入が数多くなり、過当競争が激化し、その後立ち行かない ウイスキー業者が増えていったのも事実である。
そこで蒸留所間の買収が繰り返され、 ウイスキーづくりの大企業化が始まったのがこの頃である。
その当時、ちょうどフランスのブドウ栽培地ではフィロキセラ害虫の蔓延で ブドウ栽培が壊滅的被害に遭い、ヨーロッパ全土でワインやブランデーが つくれず、そして高騰した。
当時のヨーロッパの上流階級は赤ワインやブランデーを 常飲していたが、その代替えとしてスコットランドの地酒であった スコッチウイスキーが飲まれるようになり、ヨーロッパの人々の間でも 人気が高まったのである。

こうして連続式蒸留機の改良からブレンデッド・ウイスキー誕生と、 フィロキセラによって世界中で後世まで飲み続けられるブレンデッド・ ウイスキーの名品が続々と誕生していき、ウイスキー全体の発展が遂げられたのだ。


2015.7.06 (月曜日)

第77話は「ウイスキーの密造時代」ついてである。

ウイスキーという反骨心のあるお酒はどうしてこんなにもドラマティックなのだろうか・・・そのドラマが琥珀色の奇跡を誕生させたのだ。

ウイスキーが歴史上、記録として最初に現れるのは12世紀後半である。
1171年、イングランド王ヘンリー2世の軍隊がアイルランドへ遠征した時、 「この地で生命の水と称する強い酒(アスキボー,Usquebaugh)を 飲んでいるのを見た」と史書に記録が残っているのが、ウイスキーという お酒の前身だったと考えられている。

はじめて公の文書に登場するのは、1494年のスコットランド王室の 記録に「アクア・ビテ製造のため麦芽(モルト,malt) 8ボル(bolls,当時の容量単位)をジョン・コー修道士へ」とあり、 ここにアクア・ビテ(Aqua vitae)という言葉が登場し、 スコットランドでもウイスキーづくりが行われていたことが明らかになっている。
またウイスキーという言葉が「WHISKEI,WHISKY」として 文献に登場するのは、1715年発行の『スコットランド落首集』が最初である。

1707年、それまで二大王国であったイングランドとスコットランドが統合され、 大英帝国(大ブリテン王国)となり、1713年にはそれまでイングランドで 行われていた麦芽税をスコットランドにも適用する事となり税率は数十倍に跳ね上がった。
そのため小規模蒸留業者は麦芽税を逃れるためにハイランド地方の山奥に蒸留所をつくり、 隠れて密造するようになったのが密造時代の始まりであり、これは19世紀初頭まで 100年近く続くことになる。
その密造には大麦麦芽だけを蒸溜し、大麦麦芽を乾燥させる 燃料として、近くにあったピート(泥炭)を使用し、貯蔵にはスペインから輸入されたシェリーの空き樽を流用したと考えられている。
その樽をそのまま、徴税人の目につきにくいように渓谷などに隠し、時が経ち樽を開けてみると、今まで透明だったウイスキーは 琥珀色になり、味も香りもまろやかに変わっていた。これがモルトウイスキーの前身であり、琥珀色のお酒という奇跡を誕生させたのだ。
またスコットランド・ローランド地方の大規模蒸留業者は徴税を嫌がり、 大麦以外の穀物を混ぜて麦芽の使用量を減らして蒸留した。
これがグレーンウイスキーの前身である。

1823年に新しい法律により密造時代が終わりを告げ、小規模蒸留所にも低い税金で 蒸留できる新しい税制が生まれ、最初に公認の蒸留ライセンス(免許)を取得したのが ジョージ・スミスであり、ザ・グレン・リベットの創設者である。
それから次々と公認の蒸留業者が誕生し、ウイスキーづくりを発展させていった。
そうして今なお「スコッチウイスキー」という密造から生まれた奇跡が 世界中で名を馳せているのだ。


2015.6.29 (月曜日)

第76話は「ウイスキーの起源」についてである。

ウイスキーという無骨なお酒はいったいいつ生まれたのだろうか・・・
その謎がウイスキーを一段と魅力的にする。

ウイスキーの起源は中世の錬金術師たちがつくった蒸留技術による「生命の水」に始まっていると言える。
これはウイスキーの語源であるゲール語の「ウシュクベーハー(Uisgebeatha)」が「生命の水」の 意味している事からも明白である。
鉄や鉛などを金に変える錬金術から生まれた蒸留技術は紀元前800年頃にアジアで発見され、エジプトを経由してヨーロッパに伝えられた。
錬金術師たちは蒸留して生まれたお酒を「アクア・ヴィテ(Aqua vitae)」と呼んでおり、これはラテン語で「生命の水」を意味するものだ。
アルコール度数が強烈で燃えるような味わいの液体を口にした人々は驚き、それを「生命の水」という不老長寿の薬として重宝していったのだろう。

中世ヨーロッパ各地に蒸留技術が伝わると共に、その共通語アクア・ビテ(生命の水)というが各地の言葉に訳され、蒸留酒を指すようになった。
この技術をビールのような穀物を醸造したお酒を蒸留するのに応用したのがウイスキーの始まりである。
そして、その技術が海を越えてアイルランドやスコットランドに伝わり、現在のウイスキーの原型ができたものと考えられる。

こうしてできたお酒は「アクア・ヴィテ」をゲール語に直訳した「ウシュクベーハー(Uisgebeatha)」と名づけられ、そこから 「ウスケボー(Usquebaugh)」、「ウイスカ(Usqua)」「ウイスキー(Usky)」を経て、今現在の「ウイスキー(Whisky・Whiskey)」の 名の由来となったのだ。
しかし、ウイスキーの蒸留がいつ頃行われたのかや、いつ頃から飲まれていたのかは今現在も解き明かされていないままであり、その謎においてはこの先も永遠に熟成を重ねていくのかもしれない。


2015.6.22 (月曜日)

第75話は「ウイスキー」についてである。

これほどまでに同じ原料の蒸留酒でありながら香り、色合い、味わいに 違いを出しているお酒があるだろうか・・・
それがウイスキーの最大の魅力であると言えるだろう。

ウイスキーは世界各国でつくられていることもあり、生まれた時期や 定義にはそれぞれの国や地域により異なるものである。
一般的には麦芽や穀物を原料にして、これを糖化、発酵の後に蒸留を行い、 更に木製の樽の中で貯蔵熟成させてできるお酒を指している。

ウイスキーの特徴である琥珀の色味は樽熟成による時間の流れの中で 育まれたものである。
そして色味だけでなく樽熟成という樽の中と外の 呼吸によってウイスキーの風味はまろやかになり、華やかな香りと 味わい深いコクを持つようになる。

ただウイスキーは誕生当初から樽熟成をしていたわけではない。
誕生から長い間、蒸留したばかりの透明な状態で飲まれていたと言われている。
樽熟成により琥珀色になったウイスキーが飲まれるようになったのは 19世紀に入ってからなのである。
そしてウイスキーの存在自体が世界的に知られるようになったのも 19世紀後半になってからである。
それまではウイスキーはアイルランドやスコットランドの地酒のひとつに 過ぎなかったのだ。
それまでは英国紳士を含めたヨーロッパの 上流階級の間で蒸留酒と言えば華やかなブランデーであったので、 スコッチウイスキーなどの田舎の地酒には関心もなく、広がる事はなかった。
ところが19世紀後半にフランスの葡萄畑の害虫被害でブドウが壊滅し、 ワインだけでなく、ブランデーの生産も停止され、その事により 上流階級の間でもブランデーの代用として、ウイスキーを飲み始めた事が きっかけとなり、庶民にも浸透していき、そこから世界へと羽ばたいていった。

そしてBarの顔であるバックバーには今や当たり前の光景として、 世界各国のウイスキーが誇らしげに並び、スポットライトを当てられているのである。

2015.6.15 (月曜日)

第74話は「日本のビールの歩み(3)」についてである。

今ではビールのほとんどが生ビールであるが、1975年までの瓶や缶のビールは 熱処理ビールが主役であった。飲食店では樽生ビールは夏場だけ提供し、 冬場は熱処理したビールを提供することが多かったのだ。
それは消費者が 生ビールは夏の商品とのイメージが強く、冬の生ビールは人気がなかったためである。 ビアホールなどの料飲店の実績もあり、樽生ビールはサッポロがうまいとの評判を 得ており、サッポロは競争関係で優位にある生ビールを前面に打ち出し、 1977年「サッポロびん生」を全国発売し、この頃から「生ビール」の注目度が高まった。

その後ビール市場が成熟し始め、1986年に麦芽100%で製造された「モルツ」が 誕生したのを皮切りに、翌年の1987年にアサヒが日本初の辛口生ビール 「アサヒスーパードライ」発売し、ビール業界に革命を起こすヒット商品となる。
同年にサッポロのびん生の愛称であった「黒ラベル」が正式ブランド名となった。
続いて1990年にキリンが「一番搾り」を発売開始し、この頃に現在でも 大手ビールメーカーの主力である銘柄が出揃った事になる。

1994年に政府の規制緩和政策の流れの中で、酒税法改正によって、ビールの 年間最低製造量が2000キロリットルから60キロリットルに引き下げられました。
このためビール製造の入口が広がり、マイクロブルワリーと呼ばれる地ビールが 各地で次々登場し、それぞれ個性あるビールを製造しており、現在全国に200ほど の地ビールメーカーが存在しているようです。

1990年代後半から各社主力のビール販売の低下を補うために、 「麒麟淡麗(生)」や「アサヒ本生ドラフト」などの発泡酒市場が拡大し、 2000年代前半に健康志向の機運が高まっていた事で今度はカロリーオフや ダイエットを謳った銘柄を一斉に発売した。
そして発泡酒とは別の原料、製法で 作られた新しいジャンルの第3のビールや、ノンアルコールビール、 2000年代中盤には「プレミアムモルツ」や「ヱビスビール」といった原料や醸造方法に ある種のこだわりを持たせた高級志向のプレミアムビールの市場も生まれ、 ビール市場全体が多様化し、より一層競争も激化した。
「うまいエールの頼みなら わたしはズボンを売りはたき 靴も質屋へ持って行く」
と言ったのはスコットランドの詩人ロバート・バーンズであり、すべてを投げ捨てる
価値がビールにはあるという意味であろう。
市場は多様化しているが、ビールが人々の豊かな人生に欠かせない存在であることには変わりないのだ。


2015.6.08 (月曜日)

第73話は「日本のビールの歩み(2)」についてである。

1939年、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発すると、日本政府は国家総動員法の発動し価格統制令を施行、物価だけでなく原料や製造量まで統制を受けることになり、ビールも例外ではなかった。
翌年には配給制が開始され、ラベルにはただ「麦酒」と書いただけのものになってしまった。
その後1941年、太平洋戦争への突入により原料である大麦やホップは次第に入手困難となり、電力・石炭なども不足したことと、戦費調達で課税されていたこともあり、1945年の終戦時の生産量は1939年の4分の1となってしまった。

大戦後の日本は混乱の中でビール会社は復興への努力を開始した。
1949年、日本占領中に設置した連合国軍の司令部であるGHQは産業界の独占・寡占(かせん)を禁止するために、集中排除法を制定させビール産業にも過度経済力集中排除法が適用された。
トップメーカーであった大日本麦酒が「アサヒ」と「サッポロ」に2分割されて、戦後の新しい体制ができあがるとともに、酒類配給公団が廃止されて、ビール会社は自由に出荷・販売できるようになり、ビール会社の競争が激化した。
同年には料飲店などのビアホールも全国各地で復活し、心待ちにしていた多くのビールファンが押し寄せたようだ。
その頃には特約店ルートによる販売を開始して、ますます本格的な競争を再開し、原料統制が解除された事で、戦前の生産水準を超すまでに回復している。

1950年代にはビールに対する需要も大幅に伸びたが、これは戦前のビール消費がほとんど料飲店であったのに対し、一般家庭の電気冷蔵庫普及によって、家庭で飲まれるビールが飛躍的に伸びた事が影響しており、こうした中でビール会社は生産能力の拡大や、新しい工場が次々に建設され、新しくビール事業に進出する会社もあった。
1957年に沖縄でオリオンビールも設立されるとともに、同年宝酒造がビールに参入して「タカラビール」を発売しましたが、1967年に撤退。
1963年には寿屋から社名変更したサントリーがビール業界に再び参入した。こうしていくつかの新規参入はあったものの、ほぼ現在の大手ビール業界の体制が作られることとなったのだ。

日本という国が敗戦からの復興、高度経済成長で大きく発展を遂げる中、「ビール」の存在が働く者達を奮い立たせ、人々の高まる欲求を満たしてきた事は言うまでもない。
(3)につづく


2015.6.01 (月曜日)

第72話は「日本のビールの歩み(1)」についてである。

日本人がビールと初めて出会ったのは1724年の蘭学が盛んになった江戸時代であると言われている。
鎖国していたその時代に唯一交流があったオランダの 商船使節団からの献上物の中にビールがあったのだ。
それもあって日本語の「ビール」はオランダ語の「Bier(ビール)」に由来しているのだろう。
明治新政府が欧米文化を知るために岩倉具視を中心にした使節団はヨーロッパのビールについても克明に視察していますが、当時はまだまだ国民には馴染みの薄いものであった。

1853年に蘭方医の川本幸民は蘭書を見て、自宅でビールを醸造した記録が残されていて、これが日本人によるビール醸造の起源と考えられる。
本格的にビール造りが始まったのは明治に入ってからであり、1870年にアメリカ人のウィリアム・コープランドが横浜・山手にビールの醸造所「スプリング・バレー・ブルワリー」を創設した。
その後「ジャパン・ブルワリー(現キリン)」に引き継がれ、1888年には「キリンビール」が発売。追随して「日本麦酒株式会社(現サッポロ)」が1890年に「エビスビール」を発売し、「大阪麦酒株式会社(現アサヒ)」が1892年に「アサヒビール」を発売しました。
こうして大資本から地方の中小醸造所まで、一時は全国で100社前後のビール会社ができるほどのブームとなり、日本のビール産業は黎明期を迎えることになったのだ。

その頃、日本も産業革命による近代化が本格的になり、近代的なビール会社が各地に誕生したが、1900年に北清事変が起きた事が原因で、当時酒税を課せられてなかったビールにも軍備増強のために課税が始まる。
それにより小さい醸造所はその負担に耐えられず、姿を消していき、さらに1890年代後半には4大会社が激しい競争を展開することになり、ビール産業は再編成されることになった。
1906年に日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒が合併して「大日本麦酒」が設立(戦後に分割)され、また1907年にはジャパンブルワリーを引き継いで、「麒麟麦酒(現キリンビール)」が設立された。1928年には「寿屋(現サントリー)」が「日英醸造」を買収し、「新カスケードビール」を発売し、ビール業界に一時参入したものの大手から追撃されて、1934年にビール工場を売却することになり、撤退を余儀なくされたのだ。
そして日本は激動の大正・昭和に突入し、第二次世界大戦を迎える事となる。
(2)につづく。

2015.5.25 (月曜日)

第71話は「ビールの近代化」についてである。

15~16世紀にはビールの醸造方法がドイツを中心に広まってきます。
低温で発酵・貯蔵する醸造法として「下面発酵ビール」が誕生し、気温の低い9月~翌年4月ぐらいまでにのみ醸造された。
その後ビール産業はイギリスの産業革命と共に近代工業へと変わっていった。

19世紀にはドイツの発明家 カール・フォン・リンデの「冷却器発明」により、冬の間に川から切り出した氷を穴倉に詰めてビール貯蔵・熟成させていたものが冷蔵設備によって季節と場所を問わず、一年を通してどこでも造れるようになった。これにより現在、世界の主流である下面発酵ビールの低温でじっくり時間をかけて発酵・熟成させる下面発酵ビールが世界中に広まるきっかけとなった。
そしてフランスの細菌学者 ルイ・パスツールの、60 ~ 80度の熱を15~30分間加えることで雑菌を死滅させる「低温加熱殺菌法(パストリゼーション)」により、ビールの長期保存が可能になり、ビール市場が拡大していった。
一方でデンマークではエミール・クリスチャン・ハンセンがパスツールの理論を基に研究を続けた「酵母純粋培養」によって、単一酵母をビールの腐敗の原因となる雑菌から 分離、繁殖させることに成功し、これによって必要な酵母だけを培養し、ほかの雑菌がない状態で麦汁に投入できるようになり、人類はビールの腐敗との戦いを終焉させたのだ。

こうしてビール造りは、19世紀頃の科学によって劇的に進化し、伝統的な中世の醸造方法は科学的な根拠に基づいて合理化され、常時一定の品質を保てるようになった。

「ビールが造られるのは人々が飲まねばならないからだ」と いうドイツの格言がある。人々のビールへの強い欲望によって ビール造りも近代化に向かっていったのは紛れもない事実である。

2015.5.18 (月曜日)

第70話は「古代から中世のビール」についてである。

古くから人々に飲まれているビールは現在飲まれているビールとは まったく異なったものであった。
古代のビールはほとんどがハチミツや タチヤナギ、テンニンカ、サルビア、アニス、ハッカ、ニッケイ、 チョウジ、ニガヨモギなどのスパイス類でミックスしてできた 「グルート(薬草)」を溶け込ませ、 できあがったビールを「グルート・ビール」と呼んで飲んでいました。
この時代のビールは修道院で、修道士や僧侶達によって造られ、 栄養補給や薬酒にも利用されていたようです。

時代が変わって9世紀頃からヨーロッパ各地でビールの味付けの ひとつとして「ホップ」を使った「ボック・ビール」が開発され、 13世紀には修道院のグルート・ビールと都市のホップビールの間で 激しい競争を巻き起こすことになったが、次第にグルート・ビールに 代わってホップで爽やかな苦味をつけたビールがヨーロッパでは主流となる。

ホップを使ったビールの地位が確固たるものになったのは1516年に 発令された「ビール純粋令」である。
この法令は粗悪なビールの流通や 食用である小麦がビールの原料に転用される事による飢餓を防ぐために バイエルン領邦の君主ウイルヘルム4世がビール醸造業者に対して、 「ビールは大麦、ホップ、水だけで醸造せよ」と命じ、3つの原料以外は 使用してはならないと定めたものである。
これによりグルート・ビールは 姿を消し、ビール純粋令の精神はビールそのものの定義を決めるとともに ヨーロッパ各地のビールの品質維持向上にも多大な影響を与えることとなったのだ。
「ビール1本と塩づけキャベツは医者から金貨を奪いとる」とは ドイツの諺(ことわざ)である。
適量のビールは健康的であり、医者いらずで あるという意味であるが、多くの人々はその意味を履き違えて ビールをたくさん飲むことを正当化しているのだろう…

2015.5.11 (月曜日)

第69話は「ビールの起源」についてである。
ビールはいつ頃から造られ、飲まれているのだろうかというと、 紀元前4~3千年前、それよりさらに古くまで遡る事ができると言われている。
ワインと同じく、文明とともに古くから人々に親しまれていた事が分かるのは、 人類最初の文明であるメソポタミアの時代に「モニュマン・ブルー」という 粘土の板碑にシュメール人がビールづくりをしている模様が 記録に残っているからである。
農耕生活を始めた人類は栽培した大麦や小麦などを 粉砕してパンに焼き上げていたところ、そこに何らかの形で、 水や酵母が加わり自然に発酵してビールが生まれたと考えられている。
それが「液体のパン」と呼ばれた所以である。
その後ビール造りはシュメールからバビロニアを経由してエジプトに伝わり、 紀元前3千年頃には既にエジプトでもビールが造られ、よく飲まれていたようである。
その当時はビールは飲み物としてだけではなく、薬用に飲まれていたり、 お金の代用にも使われていたり、女性などは若さを維持するために重宝されていたようだ。
また紀元前1700年頃のバビロニアの「ハムラビ法典」の中にはビールに 関わる法律が制定されており、この頃にはビールの醸造所やビアホールなどの 料飲店なども出現し、それに関する取締規則や罰則が規定されていたと考えられる。
「心底満たされた男の口にはビールがある」とはビールについての最も 古い諺(ことわざ)であるが、エジプトの紀元前2200年前頃には ビールの存在が認められていたことを物語っており、 古代人の生活においてビールは神の恵みである神聖な飲み物であったことは間違いない。
強烈な陽光の下で働く農民や労働者にとっても、一杯のビールは渇きを癒し、 明日へのエネルギーを蓄える役割を果たしているのは昔も今も変わりはないのだ。

2015.5.04 (月曜日)

第68話は「ビール」についてである。
世界でもっとも飲まれているお酒はビールであり、もっとも多量に消費されているお酒もビールである。それは日本も例外ではない。
ビールは大麦の麦芽(小麦麦芽を用いる場合もある)、水、ホップを主原料にし、副材料にスターチや米などを加えて酵母を加えて、 発酵させた醸造酒の事であり、古来より水の代わりとして人々に飲まれできた。
アルコール度数が低く、炭酸ガスを含むこと、ホップ由来の独特の香りやほろ苦さを持つことなどは他のお酒にはない、 ビールというお酒の特徴である。
ビールを大きく分けると炭酸の清涼感とホップの苦みを特徴とする 比較的新しいが世界のビールの主流であるラガータイプ (日本のビールがそれである。)と、複雑な香りと深いコク、フルーティーな 味を生み出すエールタイプがある。
もちろんそれ以外にもさまざまな種類のビールが世界で飲まれている。
世界中で生産されているビールの代表国となると、歴史の古さや種類の多さ、 原料についての法律や近代化をすすめたドイツやイギリスが真っ先にあげられる。
ビール産業に大きな影響を与えたという面ではデンマークがあげられる。
また生産量の多さや販売のマーケティング、技術面から アメリカ、日本をあげることができる。
そこに生産量のトップクラスには 中国やブラジル、ロシア、メキシコなども入り、世界中のどの地域でも ビールが生産されている事が伺い知れる。
「神はわれわれを愛し、われわれに幸せになることを求めている、 ビールがその証拠である」と語ったのは現在、アメリカの100ドル紙幣に なっている政治家ベンジャミン・フランクリンである。
世界で最も飲まれている1杯のビールが、今日も世界中で多くの人々を 幸せにしている事だろう。

2015.4.27 (月曜日)

第67話は「ワインの愉しみ方」についてである。
世界中で飲まれるワインには美味しく飲む方法や、愉しみ方があるのだ。
ワインを美味しく飲むためにはその温度が大切である。
冷たい刺激は心地良いかもしれないが、冷え過ぎると香りや味わいが十分に発揮されない。
白ワインやロゼワインは甘味と酸味のバランスが主体となるので温度は8〜10℃ぐらいに冷やした方が良い。
赤ワインは複雑で微妙な香りを楽しむために温度は16〜18℃の高めが良いと言われている。
レストランにワインを愉しむ時、ワイングラスでの乾杯はグラス同士を合わせて音を立てることはしない。
グラスを目の高さまで上げて、相手と目を合わせて乾杯をするのがスマートである。
また日本酒やビールのようにお互いに注ぎ合うことはしないものです。
基本的にワインを注ぐのはレストランのサービススタッフにお任せします。
そのためにワインが席から離れた場所に置いてありますので、グラスのワインが無くなれば、サービススタッフに声をかけて、注ぎ足してもらう。
レストランでなくても、ワインの注ぎ方としてはグラスはテーブルに置いたままで注いでもらいます。
グラスの底や脚に手を添える事はあっても、ビールのようにグラスを持ち上げ足りしないのがマナーである。
ワイングラスを口につける前に回すのは、ワインを空気に触れさせ、香りをより楽しむためのものです。
回し方としては、グラスの脚の部分を持ち、グラスからワインがこぼれないよう静かに揺らし、内側に向かって2~3回程度回す。
これによりワインの香りが立ち、香りを楽しむことができるのだ。
ヴィンテージワインはボトルに閉じ込めていた期間が長い分、本来の風味を取り戻すためには時間を要する場合があるので、飲む数時間前に抜栓したりする。
その時間を短縮するために、空気に触れさせるデキャンタージュという方法を取る事もあるのは覚えておいて欲しい。
「ワインは私たちが手に入れることのできる限りのものの中で、もっとも感覚的な喜びを与えてくれるものである。」と言ったのはアメリカの小説家、詩人のアーネスト・ヘミングウェイである。
これからも世界中の多くの人々がワインとの出逢いによって、多くの喜びが与えられる事になるのだろう・・・

2015.4.20 (月曜日)

第66話は「世界各国のワイン」についてである。
ワインの原料であるブドウは、温暖な気候を好んで生育する植物で、世界中に栽培地が分布しているが、品質の高いワインをつくるブドウとなると、その条件が限られてくる。
世界の有名なワイン生産地は年平均気温が10℃~20℃の間で、夏に十分な日照が得られる地帯に集まっている。
さらに水はけの良い地形や土壌などが必要条件として求められ、その地帯から品種の違いやワインの生まれる土地の気候条件などから、風味の異なったさまざまなタイプのワインがつくられる。
現在世界では約7千万トン近くのブドウがつくられているが、その約5%が生食用、10%ほどが干しブドウ用で、残りの85%がワイン用につくられている。
そしてそのワイン生産量は約2万7千キロリットルつくられているのだ。
世界のワイン生産量、消費量が多い国はラテン民族系のフランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ドイツなどで古くからワインを生産している事から「旧世界」と呼ばれている。
近年は「新世界」と呼ばれるアメリカをはじめ、オーストラリアやニュージーランドのオセアニア、チリやアルゼンチンの南米で大きく生産、消費が伸びており、 それに続いて南アフリカ、中国なども伸びてきている。
「ワインは常に変わらぬ友、賢明な話し相手 」
と言ったのは英讃美歌作家、詩人のウィリアム・クーパーであるが、それだけワインが世界中で日常的だという事である。
今夜も世界各国で友として、そして話し相手としてワイングラスにワインが注がれているのだろう。

2015.4.13 (月曜日)

第65話は「フレーバード・ワイン(Flavored wine)」についてである。
フレーバード・ワインはスティルワインをベースにして各種スパイス・ハーブなどの蒸留酒や浸出液、または果汁を加えてつくったお酒である。
他にもアロマタイズド・ワイン(Aromatized wine)、香味付けワイン、混成ワインとも言われている。
香りづけから分類すると、香草系の代表がイタリアのベルモット(Vermouth)で、果実系の代表がスペインのサングリア(Sangria)やフランスのデュボネ(Dubonnet)がある。
ベルモット(Vermouth)は白ワインをベースに糖分や植物性香辛料、薬草類などの香りを付加してつくられる。
使われるのはアンジェリカ、ビター・オレンジの皮、カーダモン、フェンネル、ジュニパー・ベリーなどであり、スイート・ベルモットはカラメルで着色している。
ドライとスイートでは使用する薬草の種類も異なるようである。
かつてはフランスでは辛口、イタリアでは甘口のベルモットがつくられており、フレンチ・ベルモットはドライ、イタリアン・ベルモットはスイートとされていたが、現在ではフランス・イタリアの両方で辛口、甘口をつくっている。
サングリア(Sangria)はワインにオレンジやレモン果汁などの香味と甘味を加えたもので、古くからスペインで飲まれてきている。
デュポネ(Dubonnet)は別名、カンキナ・デュポネ(Quinquina Dubonnet)と言われ、スピリッツを加えたワインにキナ皮などで香り付けして、樽熟成する。
他にホワイト・ワインにジンジャー(しょうが)を浸漬した後、樽熟成するジンジャー・ワイン(Ginger Wine)がある。
「ベルモットなくしてマティーニは完成しない。」とはいつの時代に、誰が言ったかは定かではないが、ベルモットはカクテルの王様・マティーニにはなくてはならない存在である。
ドライでアルコールの強いジンに少量のベルモットを入れる事で、世界中の人々に愛される洗練されたカクテルに仕上がるのだから、この存在感は決して侮れないのだ。

2015.4.6 (月曜日)

第64話は「フォーティファイドワイン(Fortified wine)」についてである。
フォーティファイドワインとは酒精強化ワイン、またはアルコール強化ワインと呼ばれ、製造方法は大きく二つに分けられる。
ひとつはブドウ果汁を発酵させ、まだ糖度が残っているうちにアルコールを加え、発酵を止め、糖分の甘味を残す方法で、代表的なものにはポルトガルのポート(Port)がある。
ポートは黒ブドウを原料にして3年ほど熟成させたルビーポートや、さらに熟成させたトゥニーポート、白ブドウを原料とした比較的辛口に仕上げられるホワイトポートなどに分けられる。
もう一つの製造方法は完全発酵させ、辛口ワインをつくったあと目的に応じて、アルコール量を加減しながら、加え保存性を高めたもので代表的なものはスペインのシェリー(Sherry)である。
シェリーのタイプにはいくつかあり、フィノは酒精強化後、樽熟成中にフロール(産膜酵母)の膜のもとで熟成を行う。
フィノをさらに熟成させるとアモンティリャードというナッツのようなフレーバーを持ったもの、フロールを繁殖させずに熟成させたオロロソなどがある。
他にもシェリー・ポートと並んで世界フォーティファイドワインに数えられているのがマディラ(Madeira)である。ポルトガルのマディラ島でつくられるマディラは酒精強化後の熟成工程で、エストゥファという加熱処理して酸化熟成させる事で独特の風味をもたせたワインである。
それ以外にはイタリア・シチリア島のマルサラや、スペインのマラガ、フランスのヴァン・ド・ナチュレル(VDN)、ヴァン・ド・リクール (VDL)などがある。
イギリスの劇作家・詩人であるシェイクスピアの作品で「上等なシェリー酒には毒気を吹き払い、頭の働きを鋭敏かつ創造的にする。
そして血をほてらせ、たちまち五臓六腑から四肢五体まで駆けめぐり、顔にパッと火をともす」という台詞が登場する。
心も身体も火照らせるフォーティファイドワインは異性をスマートに口説くお酒であることは知る人ぞ知るBarでの嗜(たしな)みである。

2015.3.30 (月曜日)

第63話は「スパークリングワイン(Sparkling wine)」についてである。
スパークリングワインとは発酵の際発生する炭酸ガスの一部をワインの中に溶かした「発泡性ワイン」のことである。
基本的には3.5気圧以上のガスを持ち華やかな雰囲気を持ったワインである。
いくつか製法はあるが、前述したスティルワインをビンに詰め糖分と酵母を入れ、密閉しビンの中で二次発酵をさせる製法をビン内二次発酵方式またはトラディショナル方式という。
この製法で作られるもっとも有名なのがフランスのシャンパン(Champagne)である。
シャンパンはブランドのイメージごとに品種や収穫年の違う原酒をブレンドし常に一定の味わいにするのが一般的であるがヴィンテージというその年に収穫したぶどうのみを使ってつくられる特別なシャンパンもありぶどうの出来の良さでその味わいは格別なものとなる。
またビン詰め後はオリとともに長期熟成をさせ、シャンパン特有の風味ときめの細かい泡をワインに溶け込ませることであの気品のある味わいが生まれるのだ。
シャンパーニュ地方以外でつくられるシャンパンと同様の製法を用いたワインをフランスではクレマン(Cremant)と呼び製法が違うスパークリングワインを総称してヴァン・ムスー (Vin Mousseux)という。
フランス以外にはスペインのカバ(CAVA)ドイツのゼクト(Sekt)イタリアのスプマンテ(Spumante)の一部もビン内二次発酵でつくられている。
他の製法にはタンク内でまとめて二次発酵を行うシャルマ方式である。
一度に大量につくることが可能なのでコストを抑えられるので価格も低価格である。
「シャンパーニュは戦いに勝った時こそ飲む価値があり負けた時には飲む必要がある。」
と言ったのはかのフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトであり彼がシャンパン好きである事が伺える。
人は喜怒哀楽で酒を飲むがスパークリングワインは特にその人々の感情に寄り添ったお酒であると言えるだろう。

2015.3.23 (月曜日)

第62話は「スティルワイン(Still wine)」についてである。
スティルワインとは醸造の途中で発生する炭酸ガスを含んでいない「非発泡性ワイン」あるいは「無発泡性ワイン」のことをいう。
スティルワインの"スティル"とは「物音がしない」「動かない」という意味でグラスに注ぐ際、スパークリングワインのような 泡立ちの音がしないところからこのように呼ばれたと言われています。
一般的には食事とともに楽しむ事が多いスティルワインは全世界のワイン生産量の90%以上を占めていてそれは赤、白、ロゼといった色で大きくは分けられる。
赤ワイン(英語でRedwineフランス語でVin rouge)は収穫した黒ブドウを粉砕機にかけて潰し発酵させたあと、圧搾機にかけ 果皮、果肉、種子を取り除く。
種子や果皮に含まれるタンニンが溶け出し赤ワインの渋みとなるのだ。
発酵を終えた若いワインは樽やタンクに入れて一定期間を熟成させる。
熟成後はビン詰めしてビン内熟成をさせるのだがそのビン熟中に香高い熟成香が生まれ味わいに深みが出てくる。
白ワイン(Whitewine、Vin blanc)は赤ワインと違い、収穫したブドウを果皮や種子ごと絞らず、果実だけを絞りそれを発酵させるためフレッシュでフルーティーな風味にしたものが出来上がるのである。
一般的にはステンレスタンクで熟成され一部樽熟成を行う事もあるが赤ワインに比べて短い。
白ワインの場合は赤ワインと違い辛口から甘口まで様々なタイプがあり発酵時の糖分量によってその仕上がりになる。
ロゼワイン(Rosewine、Vin rose)はいくつかの製法がある。
赤ワイン同様に作られ、ワインがピンク色になったところで果皮、果肉種子を取り除き、再びタンクに戻して白ワイン同様の発酵をさせるのが標準的な製法である。
他にも白ブドウを黒ブドウに変えて作る白ワインと同じ製法や、黒ブドウと白ブドウを混ぜ合わせて作る製法などがある。
『つまらないワインを飲むには人生はあまりにも短すぎる。』と言ったのはドイツの法律家であり、詩人であったゲーテであるが、スティルワインは赤、白、ロゼだけでなく、軽めから重め辛口から甘口ワインと様々あるが短い人生において良いワインを 選ぶことが良い人生であることを説いているのに違いない。

2015.3.16 (月曜日)

第61話は「ワインの種類」についてである。
ワインの風味は無限と言えるほど多種多様でありその製造方法やワインの色、ボディ甘辛度などにより様々な分類ができる。
ワインの製造方法から大きく分類をすると一般的にワインと言われるのは発泡性のないスティルワイン(Still wine)そして発泡性のあるスパークリングワイン(Sparkling wine)酒精強化のフォーティファイドワイン(Fortified wine)混成ワインのフレーバード・ワイン(Flavored wine)の4種類になります。
ワインの色による分類をすると黒ブドウや紫、赤などの色のついたブドウを使用する赤ワイン(Red wine)白ブドウ、もしくは黒ブドウの果汁のみを使用する白ワイン(White wine)いくつかの製造方法はあるがピンク色のワインのことをフランス語で「バラ色」と意味するロゼワイン(Rese wine)の3種類になります。
ワインのボディ(味わいのコク、深み複雑さ、重み、厚みなど)で分類をするとフレッシュで若々しい香りや軽快な飲み口のライトボディ(軽口)ポリフェノールやタンニン等の渋みの多いものやコクのあるものをフルボディ(重口)ライトボディとフルボディの中間であるミディアムボディ(中口)の3種類に分けられる。
ワインの甘辛度による分類をするとぶどう果汁の糖分を、発酵によって殆ど全部アルコールに変えられてしまった辛口ぶどう果汁を発酵の途中で、発酵を止めたりあるいは自然に止まったりぶどう果汁の糖分が一部ワインに残った甘口となり、その残糖の量で、ごく辛口辛口、やや辛口、やや甘口、甘口、ごく甘口とランク分けされるのが一般的である。
「1本のワインボトルの中には全ての書物にある以上の哲学が存在する」
と言ったのはフランスの細菌学者であるルイ・パスツールであったがワインの多種多様さは作り手や飲み手の数だけ、語りつくせぬ哲学が存在するからであろう。

2015.3.9 (月曜日)

第60話は「ワインの品種」についてである。
ワインに使われているブドウ品種は世界中で数千種もあると言われている。
世界中で収穫されるブドウの7割以上がワイン用であり、そのブドウ品種にはヨーロッパ系とアメリカ系という2つの系統があり、主にワイン用に用いられるのはヨーロッパ系。
つまり世界で栽培されるブドウの7割以上がヨーロッパ系ということにもなります。
ワイン用のブドウ品種の主なものは植物学上では全てブドウ科ブドウ属のヴィティス・ヴィニフェラ種に属しており、それらは生食用ブドウであるヴィティス・ラブルスカ種とは基本的に種が異なります。
ヨーロッパ系のブドウはカスピ海・黒海沿岸の乾燥地帯に生まれたものが多く、ヴィティス・ヴェニフェラ系に属している品種は全て同じルーツを持っていると言えるようです。
アメリカ系ブドウは大きく2つ系統があり、ヴィティス・ラブルスカ種はほとんどが生食用やジュースの原料として使われますが、一部ワインも生産されます。
ヴィティス・リパリア種やヴィティス・ルペストリス種などのブドウは害虫「フィロキセラ」に耐性があり、台木の品種の一番基本になる種です。
他にアジア系ブドウで学名 ヴィティス・アムレンシス種などはいわゆる「山ブドウ」で、北海道など一部でワイン品種として使われています。
世界的に有名なブドウ品種に赤ワインではカベルネ・ソヴィニヨン、カベルネ・フラン、メルロ、ピノ・ノワール、ガメ、シラー、サンジョヴェーゼ、ネッビオーロ、テンプラニーリョ、ジンファンデル、カルメネールなどがあります。
白ワインではシャルドネ、セミヨン、ソヴィニヨン・ブラン、リースリング、ミュスカヴィオニエ、ピノ・グリージョ、ヴェルメンティーノなどがあります。
もちろん日本独自の品種も数多くあり、赤ワインでマスカット・ベリーA、白ワインで甲州が有名です。
ワインは種類によって色や香り、味わいが異なりますが、それは原料となるブドウの品種が違うためです。
それぞれの国や産地で気候や土壌に合った栽培品種を選び、製造方法を工夫してより高品質なブドウを今現在もつくられているのです。
「ワインは人を楽にしてくれる。
落ち着かせてくれる。緊張を和らげてくれる。
そして寛大にしてくれる」と言ったのは現在アメリカ100ドル紙幣になっている政治家ベンジャミン・フランクリンであるが、多くの品種のあるワインを味わうことで、人生が豊かになると言いたかったのではないだろうか。

2015.3.2 (月曜日)

第59話は「ワインの定義」についてである。
ワインとは広義には果物からつくった醸造酒を指すが、狭義にはブドウを醸造してつくった酒をワイン(Wine)といっている。
ワインは英語であり、フランス語でヴァン(Vin)、ドイツ語でヴァイン(Wein)、イタリア語でヴィノ(Vino)、スベイン語でビノ(Vino)、ポルトガル語でヴィニョ(Vinho)であるが、これらはいずれも語源とみられるラテン語のヴィヌム(Vinum)というワインを表す言葉からきている。
ワインは生鮮ブドウの果実をそのまま発酵させてつくる醸造酒で、一年に一回、収穫後のごくわずかな間しかつくることが出来ない。
また生産地の気候条件や適正ブドウ品種、土壌、地形、栽培方法、醸造法などによってワインの風味が影響される他、収穫が年に一度であるために、その年の気象にも大きく左右される。
特に長い歴史を持つ産地では気候特性から、つくらるワインの栽培品種が決まっており、それぞれの産地で伝統的なワインの個性が確立されている。
「ワインの無い食事は、太陽の出ない一日と同じ」とはドイツの詩人であり、法律家であるゲーテの言葉であるが、ワインが食事においてそれだけ無くてはならない存在だという意味である。
多くの国や、地域でそれぞれのワインの呼び名がある事がそれを物語っている。

2015.2.23 (月曜日)

「酒」のそれぞれの歴史や定義についてくわしく書き進めていくとしよう。
第58話は「ワインの歴史」についてである。
ワインは人間が知る事のできる飲み物の中では地球上最初に登場したアルコール飲料とされている。
文献で紀元前2500年頃に書かれた古代バビロニアの文学作品であるギルガメッシュ叙事詩によると古代民族シュメール人たちがユーフラテフ川のほとりでワインを造っていたとあり、エジプトのピラミッドの壁画に書かれたブドウの栽培の様子などでもそれが明らかである。
ブドウ栽培やワイン醸造の技術が地中海を渡り、ギリシャ・ローマ・フランスのマルセイユへと広まり、ローマ帝国の領土拡大や、キリスト教の普及に影響されながら、 ヨーロッパ各地でブドウ栽培、ワイン醸造が広まっていった。
中世に現代よりもブドウの栽培地の広がりを見せたのはワイン醸造が僧院の事業となり、王侯貴族たちもこれを手厚く保護し、品質向上に取り組んだことがひとつの要因である。
またヨーロッパの水質が優れないためにワインやビールの方が衛生的にも、金額的にも扱いやすく、日常生活の中に取り入れられたと考えられる。
17世紀にはコルク栓が開発され、ワインの産地としては優れない地域にシャンパンが生まれた。18世紀には美食の時代が始まりルイ15世のもとで料理技術の発達した事で、ワインと食事が強く結びつくこととなった。
これまで上流階級が消費の中心であったが18~19世紀のフランス革命で市民レベルでワインの消費が広がり、料理との結びつきもより高まった。
一方で17~18世紀にかけてヨーロッパの列強は植民地獲得に力を入れ、植民地へブドウの苗木の移植が行われた。
アメリカ、アルゼンチン、チリ、オーストラリアなどはブドウ栽培に適しており、今ではヨーロッパと肩を並べるワイン生産国となっていった。
その後ワイン醸造はシルクロードを通り中国に伝わり、室町から戦国時代には日本にも伝来し、明治10年ごろ山梨で始まり、現在も多くの都道府県でワイン醸造がされている。
「パンはわが肉、ワインはわが血」とキリストが残した言葉は有名であるが、ワインはお祝いや儀式には必ず出されるし、世界中の老若男女が日常的に飲んでいる。
これはワインがアルコール飲料の域を超えている事を意味するものである。

2015.2.16 (月曜日)

第57話は「酒造り~日本酒の近代化~」についてである。
明治新政府のもと富国強兵策がとられ、国は税金の収集を強化し始め、酒税もその対象となり、自家醸造が「密造」とされ、完全に禁止される事となります。
明治15年には酒造場が1万6,000件あったと記録されています。
またそれまでお酒は木樽や小壺に入れ、量(はかり)売りをされていたのですが、明治19年にビン詰めが行われ始め、明治42年には1升ビンが開発されます。
それと同じ頃、速醸法が編み出され、化学的にお酒の製造をしていくために国立の醸造試験所が開設されたのです。
大正時代に1升ビンが普及し始め、昭和初期に酒造米専用の堅型精米機の発明、季節に対応する四季醸造設備や微生物の管理が容易なホーロータンクの登場などの技術革新が相次ぎ、昭和10年頃までに酒造りの近代化・効率化を迎えるとともにすっきりとした日本酒が多く出回るようになる。
昭和18年には特級、1級、2級という級別制度が始まります。
その後世界大戦を経て、日本各地における酒造りの復興が始まり、高度成長期は戦後開発されたアルコールを添加してつくられる三増酒がまだまだ流通しており、その後も洋酒の流行などで、近年まで日本酒の消費低迷の時代が長く続きました。
平成元年に級別制度が見なおされ、平成4年に全廃となります。
そして級別廃止後の酒造りは本醸造や吟醸といった特定名称酒にこだわる飲み手が現れ、より多様化していくこととなる。
従来の日本酒は濃醇辛口であったが、酸の多い濃醇甘口へと変化し、その後、飲み飽きのしない淡麗辛口へと変化していった。
その味わいの変化と共に、世界各国から多種多様なお酒の輸入がある中で、「日本酒」という大きなジャンルを築き、確固たるものにしたのだ。
そして、今は世界中でその魅力が認められ、日本酒が注目を浴びている事は日本人にとっての誇りであるに違いない。

2015.2.9 (月曜日)

第56話は「酒造り~日本での確立~」についてである。
日本の酒造りは日本酒によって定着していったと推察されるが鎌倉、室町時代にかけて都市化が進み、商業が盛んになるにつれ米と同等の価値を持った商品としての酒が流通していきます。
朝廷の酒造組織に代わって寺院、神社が酒を造るようになり、京都を中心に造り酒屋がおおいに栄え始めるのもこの頃だと言われています。
その頃の記録として京都の「柳酒屋」「梅酒屋」などがその代表であったというのが残っています。
室町初期には現在の清酒造りの原型である麹米にも掛米にも白米を用いた「諸白(もろはく)」仕込みがほぼ整ったことになります。
安土・桃山時代には大桶を作る技術の完成によって瓶や壺で少量ずつ仕込んでいた頃よりも生産量が飛躍的に増大していったようです。
またこの時代には異国文化の到来と共に、蒸留技術が伝来し日本における蒸留酒(焼酎)造りの原形ができたと考えられます。
江戸時代には保存性をさらに高めるための火入れ法(低温殺菌法)や混和法(アルコール添加)など当時ヨーロッパにもない画期的な処理技術が開発されました。
またこの頃1年間に計5回仕込まれていましたが中でも冬期における「寒造り」が最も優れていることが明らかになり 優秀な酒造りの技術集団の確保がしやすい時期であることと低温・長期発酵といった醸造条件からも重要視されたようである。
17世紀終わりには27,000件もの酒造りの場が日本全国にあったと記録されています。
江戸中期、海運の発達や問屋組織の確立のおかげで酒造りが「地の酒」を超越して巨大な産業へと発展していきそれを最も台頭してきたのが「灘の酒」であり、樽廻船と呼ばれた貨物船に積み込み江戸へ運ばれ、庶民に絶大な人気を誇るようになった。
こうして日本の酒造りは鎌倉時代、室町時代を経て太平の世であった江戸時代に酒造りの技術はますます発展していった。
そしてこの時代には今世界中で飲まれている日本酒の基礎がほぼ確立したと言えるだろう。


2015.2.2 (月曜日)

第55話は「酒造り~日本への伝来~」についてである。
日本の酒の起源は紀元前2~3世紀ごろに大陸から稲作がもたらされた時に同時に伝えられたと考えられている。文献としては3世紀に日本の事を書かれた魏志倭人伝の中にお酒に関係する記述がある。
ただしそれが米の酒であったのか、他の穀類や果実から造られた酒なのかは不明である。
米を主体としてお酒が造られるようになったのは、弥生時代の水稲農耕が定着し、お米が安定して手に入るようになった頃であり、西日本の九州、近畿での酒造りがその起源と考えられます。
そして国内に広まっていった酒造りは『古事記』『日本書紀』『万葉集』『風土記』などの文献に見られるようになります。
しかしながらその当時は「サケ」という呼称ではなく、「キ」「ミキ」「ミワ」「クシ」などと様々な呼ばれ方をされていたようだ。
奈良時代初期に周の時代の中国で開発された麹による酒造りを百済から伝承したと『古事記』に記されており、これにより米麹による醸造法が普及するようになり、これが現代の日本酒に近いお酒と考えられている。
律令制度が確立され、酒は民衆から離れて朝廷のための醸造体制が整えられ、酒造技術が一段と進んでいき、平安時代に入り、編纂された『延喜式』(えんぎしき)には「米」「麹」「水」で酒を仕込む方法が記載されています。
この時代の政治はすなわち祭事であり、その際のハレの日の食事としてお酒は不可欠のものでしたが、宗教儀礼的要素が強く、庶民の口に入ることは滅多になかったようだ。
日本の酒の歴史も世界と同様に正確な起源が明らかになっておらず、神話の時代まで遡ることになりそうだ。
そしてやはり昔の日本の人々にとっても世界と同様に酒は神聖で、高貴なものであったが、人々は生きていく上で酒というものを求めずにはいられなかったのだろう。


2015.1.26 (月曜日)

第54話は「酒造り~蒸留から混成酒~」についてである。
蒸留酒が出現してまもなく、11世紀から13世紀にかけて、様々な薬草、香草などを蒸留酒に配して、その成分を浸出させ、より薬用効果のある秘酒の製造が行われるようになった。
13世紀にローマ教皇の医師が「スピリッツに薬草の成分を溶かし込めば、さらに薬酒としての効能が高まる」と考えた事で、レモンやバラ、オレンジ・フラワーなどの成分をスピリッツに抽出した薬酒を作った。
この薬酒はラテン語で「溶かす・溶け込ませる」という意味をもつ「リケファケレ (Liquefacere)」と命名され、それがフランス風になまってリキュールと呼ばれて珍重された。
初期のリキュールはその名がまだ定着せず、エリクシル(Elixir)と呼ばれていたとする文献は多く、それは今あるようなリキュ-ルとは異なり、薬酒的な意味合いの強いものであっただろうとされている。
薬酒としての性格が強かったので、以後これらのリキュールの製法は修道院に伝えられていった。14世紀に入り、黒死病がヨーロッパで猛威をふるった際に「リキュールは病の苦しみを和らげる」と信じられたことも、修道院がリキュールを扱うようになった背景である。
大航海時代には世界各地の香辛料や木の実や果実がヨーロッパにもたらされるとともにそれらを使って、風味の改良が行われたり、新しいリキュールが開発されたりして多様化していったことで、嗜好の幅や色味のバリエーションを広げていった。
現代においてのリキュールは病を治す薬酒としての効能だけでなく、人々の心を癒すからこそ、「Bar」という心の診療所に置かれているのかもしれない。


2015.1.19 (月曜日)

第53話は「酒造り~醸造から蒸留へ」についてである。
酒造りの歴史に大きな変化があったのは錬金術師による蒸留技術が酒造りに応用された時代である。
メソポタミアで生まれた香水をつくるための蒸留技術や知識は次第にそこから西にも東にも伝藩され、世界各地へと広まったのだ。
この蒸留技術でアルコール分を多く含んだ強烈な酒をつくることが可能になり、錬金術師達はその強い酒のことをラテン語でアクア・ビテ (Aqua vitae ラテン語で『生命の水』)と呼んだ。
その理由としてはアルコール度数も、純度も高く、また冷えた蒸気から少しずつ生み出されてくる蒸留酒は貴重であり、まさに生命の水と呼ぶにふさわしかったのかもしれない。
そして、蒸留されたお酒は生命を永らえる不思議な力がある薬酒としての効果からも生命の水と云われていた由縁のようである。
この『生命の水』はアラブ諸国から地中海周辺を経て、8世紀頃の中世ヨーロッパの各地に伝えられ、土地ごとに容易に入手できる原料を使って、 酒の蒸留が行われるようになった。
初めはどれも無色透明のものであったが人類の経験と知恵により、その後次第に改良され、西側のポーランドやロシアでウォッカとなり、フランスやイタリア、スペインなどではブランデー、スコットランドやアイルランドではウイスキー、オランダでジン、北欧諸国でアクアビット、東側では中国で白酒、日本で焼酎となり、さらに大航海時代に入り、蒸留技術がヨーロッパから海を渡り、 カリブの島や新大陸でラムやテキーラというように、それぞれの土地ごとの特産酒として蒸留酒が生まれている。
こうして現代に飲まれているほとんどの蒸留酒は中世にはほぼ出揃い、それ以降はそれぞれの蒸留酒が時代の流れと共に多くの人々に飲まれ、多くの人々から愛されて、洗練されていくことになったのだ。

2015.1.13 (火曜日)

第52話は「酒造りのはじまり」についてである。
前述したように原始時代にはお酒自体は存在したであろうが、酒を造るというようなゆとりは無かったのだろう。
酒を造るためには時間を必要とした事から、人類が一定の土地に定着して生活を始める頃から酒造りが行われるようになったと考えられている。
文献には紀元前2500年頃の古代オリエント最古の文学作品「ギルガメッシュ叙事詩」の中で記載されている書板に、赤白ともにワインを造っていた事が記されている。
また紀元前3000年頃のものと推定されるシュメール人の遣した板碑「モニュマン・ブルー」にはビールづくり用のエンメル小麦を脱殻して、ビールを造る様子が描かれている。
そのことから5000年くらい前には低アルコールでありながらもワインやビールなどの酒造りがすでにされているのは推察されるが、文献に残るくらいであるから、この頃には酒造りがすでに行われていて、実際にはいつからという特定は難しいものである。
こうして始まった酒造りによってできたお酒は今飲まれているものとは程遠く、ワインは渋くて酸っぱいものであり、ビールも苦味がなく、気の抜けて濁ったものだったと思われる。
ただお酒がその当時の人々の生活を潤すものであり、神への信仰や、お祝いごとには欠かせないものであったと言えるだろう。 

2015.1.05 (月曜日)

2015年も天声酔語にお付き合い下さい。
新年スタートはBarには欠かせない「酒」というものの歴史や、その分類について書き進めていくとしよう。
第51話は「酒と人との出会い」についてである。
今更ながら酒とはアルコールを含んだ飲みもののことである。
古代から現代に至るまで、人類の歴史は酒とともに繰り広げられてきたと言っても過言ではない。
では人類の誕生と酒の誕生ではどちらの起源が古いのかというと、実は酒の方が先に生まれたのである。
地球上に人類が誕生したのは600万年前から700万年前のこととされている。
しかし6千万年前にはワインの原料であるブドウが誕生していたのは考古学によって明らかになっている。
それによって人類の誕生以前からブドウの実に含まれる果糖やブドウ糖などの糖分が、これもそれ以前から存在していた、微生物によって発酵していたと推測されるものだ。
これが味わいはともかくワインの原形というべき存在であっただろうと考えられている。
つまり地球上で誕生したブドウがあちこちで自然に発酵し、アルコールを含んだお酒となり、 そこに後から人類が誕生し、飢えや乾きを凌ぐために口にした時が酒と人類がはじめて出会った瞬間である。
はじめて酒を口にした人類の驚きや、それからどんなロマンチックなストーリーであったかは、今となっては何人も知る由もない。

2014.12.29 (月曜日)

2014年の1月から始めた天声酔語も今年最後でちょうど50話目になります。
お付き合い頂いた方はありがとうございます。
第50話は「カクテルのレシピ」についてである。
人々を魅了するカクテルには全てレシピが存在する。
そのレシピを基にどんなに時代が流れても、どのバーテンダーがつくっても同じようなテイストを生み出すことができるのだ。
レシピによってそのカクテルの歴史や伝統を守ってきたのは言うまでもない。
ただまったく同じレシピでもバーテンダーごとに作り出されるカクテルに違いが出てくるが、それもカクテルの奥の深さであり、カクテルの神秘でなのだ。
同じカクテルでもそれぞれの時代のレシピが存在したり、複数のレシピがそれぞれのストーリーにおいて、歴史をつくっている場合もある。
その代表例がカクテルの王様「マティーニ」や、ドライの定番カクテル「ギムレット」である。
今のようにドライではなく甘口であったが、現代のドライ嗜好でレシピが変化していったものだ。
そしてシンガポールスリングには2つのレシピが存在し、どちらが正しいというものでもなく、スタイルの違いなのである。
カクテルは基本的なレシピは同じでありながら、その時、その時のお客様の望みや好み、そしてバーテンダーのお客様への想いや気遣いで、レシピの材料を足したり、引いたりするアレンジもできるものだ。
バーテンダーが大事にしているのは歴史や伝統というカクテルのレシピもそうであるが、提供されるお客様の笑顔に勝るものはないからである。

2014.12.22 (月曜日)

カクテルの技法は先に述べたがその技法以外にもお客様に提供する前のテクニックがいくつもある。
第49話は「カクテルのスタイル」についてである。
グラスの縁に砂糖や塩をまぶし雪が凍りついたような感じがすることからスノースタイルと呼ぶ。
出来上がったカクテルにレモンやライムオレンジなどの果皮のオイル分を飛ばし香りで風味を引き締めるのをツイストという。
カクテルの比重を利用してカクテルにお酒やクリームを浮かべるフロートや下に沈めるドロップなどで色合いにグラデーションをかけるスタイルもある。
カクテルにフルーツなどを飾り香りや色彩を華やかにすることをデコレーション、あるいはアクセサリーガーニッシュと様々な呼び方がある。
マティーニのオリーブやマンハッタンのチェリーもこれにあたりデコレーションがあるかないかでカクテル名が変わってしまうほどである。
カクテルは味わいだけでなく提供スタイルや飾り、見た目香りによってもお客様を楽しませることができるのだ。
だからこそ、そこにおいても一切の妥協をしないのがバーテンダーの美学である。

2014.12.15 (月曜日)

第48話は「カクテル技法 Blend〜ブレンド〜」についてである。
ブレンドは4つの技法の中で機械の力によって渾然一体と混ぜるもだ。
「Blend(ブレンド)」という動詞には混ぜる、混ぜ合わせるの意味があるが、Barではブレンダー(日本ではミキサー)と呼ばれる電動式の機械で混ぜ合わせることである。
材料にクラッシュド・アイスという細かく砕いた粒状の氷を加え、シャーベット状のフローズンカクテルをつくる場合や、イチゴやバナナなどのフレッシュな果物を溶かし込んでフルーティーな味わいをつくる場合にこの技法が必要となる。
これによって作られるカクテルにフローズン・ダイキリやフローズン・マルガリータなどがある。
またシンガポールのロングバーで提供されるオリジナルのシンガポールスリングもブレンダーによってつくられる。
Barではフローズンカクテルがメニューになくとも男女問わず頼まれるもので、その注文をしっかり受け入れらるのもバーテンダーがいるからである。
ブレンドは機械でつくるものではあるが、こだわりを持ったバーテンダーの妙技であることには違いない。

2014.12.08 (月曜日)

第47話は「カクテル技法 Shake〜シェイク〜」についてである。
シェイクという技法がバーテンダーの華麗さや、ダイナミックさを表しているのは言うまでもなく、Barの所作の中でも花形である。
「Shake(シェイク)」という動詞には振る、振り動かす、揺すぶるなどの意味があるが、Barでは「シェイカーで振ってつくる」という意味になる。
シェイカーという器具の多くはステンレス製であるが、他にも銀(洋白銀)、ガラス、陶磁器、プラスチックなどが存在する。
またシェイカーの種類も、丸みのあるスタンダード、角ばったバロン、海外では主流の片側がグラスになるボストンなどがある。
そしてそのシェイカーを使ったシェイクには基本となる「二段振り」の他に「一段振り」、「三段振り」とバーテンダーごとに振り方や、振る回数なども異なる。
「シェイク」には混ぜる、冷やす。まろやかにするという3つの役割がある。
比重が違うお酒同士や混ざりにくい材料を混ぜ合わせ、急速に冷やし、そこに空気を含ませてアルコール度数が高いお酒のカドを取り、まろやかにする。
この効果によって、ステアでつくるものとは全く別の液体が生まれるのであって、ただ混ぜたり、冷やしている訳ではない。
そこにシェイクの真髄があるのだ。
バーテンダーは液体の入ったボディに中間部分のストレーナーをはめて、蓋の部分であるトップをはめる前にひと呼吸おいている。
それはシェイカー内の空気が圧縮されないように空気を抜いているのと同時に、 「美味しくなーれ」と一杯のカクテルに想いを入れ込んでいるのだ。
したがって「シェイク」とは「バーテンダーがシェイカーで想いを振ってつくる」というのが正しい意味なのかも知れない…

2014.12.01 (月曜日)

第46話は「カクテル技法 Stir〜ステア〜」についてである。
このステアという技法はシェイクのような派手さはないが、カクテルの王様「マティーニ」も、カクテルの女王「マンハッタン」も、この技法によってつくられる事を忘れてはならない。
「Stir(ステア)」を英訳するとかき混ぜる、かき回すの他に奮起させる、目覚めさせるなどの意味があるが、Barでは「混ぜる」「攪拌(かくはん)する」といった意味で使われる。
「ステア」は直接グラスに注いでつくる「ビルド」と違い、ミキシンググラスと呼ばれる、ビーカーのような大きめのグラスにまず氷と少量の水を加え、グラス内を冷やした後に水を切り、そこに材料を入れてバー・スプーンで攪拌(かくはん)する。そしてカクテルグラスへ注いで完成となる。
ステアでつくられるカクテルはお酒そのものの素材やアルコール感を活かし、輪郭のあるキリッとした味をしっかりと引き立たせる事となる。また氷が溶けるのも少量で水っぽくなりにくい。
そして攪拌(かくはん)する事で、お酒の隠された表情を引き出す最適の技法なのだ。そのままストレートやロックで飲むのとはまったく違った表情を見させてくれるのもステアの特徴のひとつと言えるだろう。
バーテンダーのステアはただ混ぜて冷やしているのではなく、お酒の中に眠る華やかな表情を目覚めさせているのだ。
だからこそステアでつくるカクテルを注文した時は、静かにその目覚めを待ちたいものだ…

2014.11.25 (火曜日)

カクテルは数え切れないほどのレシピが存在するのだが、そのカクテルをつくる技法は大きく分けて4通りある。
同じレシピでも技法の違いで全く違った味わいになるのがカクテルの奥深さなのだ。
第45話は「カクテル技法 Build~ビルド~」についてである。
ビルドは「直接グラスにつくる」技法である。
「Build(ビルド)」を英訳すると建てる、築く作るなどの意味があるのだがBarの世界では混ぜるための器具を使わないでグラスの中でつくるもっとも簡単なものでバーテンダーとして一番最初に学ぶ技法だ。
ビルドは主材料のお酒を炭酸で割るものや、オレンジなどの果汁で割るものが一般的である。
ビルドの中でもつくり方に違いがある。
ジントニックやウイスキーのソーダ割りのように炭酸ガスを含んだトニックやソーダなどのミキサーと呼ばれる副材料で割るものがあるが、グラスに氷を入れ主材料を入れて、炭酸を注ぎバー・スプーンで軽く一回転から二回転回して止める。
あまり回さないのはかき混ぜ過ぎると炭酸ガスが飛んでしまうからである。
そしてリキュールなどのエキス分の高いものは副材料を入れても比重の関係でグラスの底に沈んでしまうのでバー・スプーンを軽く持ち上げて2回転ぐらい回す事でグラスの中を均一化する。
主材料を果汁などと混ぜ合わせる場合はバー・スプーンをしっかりと回転させることになる。
技法の中でビルドが最も簡単であるが簡単だからこそ難しいと考えるバーテンダーは多い。
バーテンダーが同業のBarを訪れる時に飲むカクテルにジントニックやウイスキーのソーダ割りが多いのもこういった理由であろう。
シンプルだからこそ、お店やバーテンダーごとに使うジンや副材料作り方などのこだわりがありバーテンダー同士でお互いにその「極み」を見ているのだろう。
一杯のカクテルにかける想いはビルドから始まっている・・・

2014.11.17 (月曜日)

第44話は「日本のカクテルの歩み 」についてである。
日本にカクテルが渡来したのは欧米化の波にのり始めた明治初期である。
鹿鳴館を中心に日本政府の高官や華族,欧米の外交団が宴会・舞踏会を催し,欧化主義を広めようとしたこの時代にカクテルが登場したようだがまだ上流階級のみの楽しみであった。
市民の間で「カクテル」という名前が知られるようになったのは大正に入ってからで、下町にバーというものが出現してからである。
昭和の初期はまだ国産洋酒はほとんどなく、輸入酒も限られていたため、カクテルのバリエーションも少なかった。
日本に本格的にカクテルブームが訪れるのは第二次世界大戦が終結し昭和24年のバー再開がきっかけである。
戦後の開放された風潮の中で手頃な価格で気軽に洋酒を楽しめる雰囲気であったトリス・バーが全国に急速に広がっていったのが昭和30年代でこの頃人気なのは「ハイボール」他には「雪国」や「青い珊瑚礁」が登場した時代である。
昭和40年代になると女性の飲酒傾向が強まり、さらに50年代には海外旅行ブームも影響してトロピカルカクテルがブームとなる。 昭和60年代にはカフェ・バーや本格的なバーの出現でスタンダードカクテルの新しい飲酒層を開拓し、日本のカクテル文化が築かれていったのだ。
時代は流れ、今やカクテルは酔うための飲みものから人生を豊かにしたり、生活を楽しませたりするためのものに変化していった。
そして日本でも欧米でも「伝統回帰」とも言える往年のシンプルなカクテルが再注目されている。
Barではマティーニやジントニックモスコミュール、カンパリソーダスクリュードライバーなどのシンプルなカクテルが安定した人気を得ているのだ。
そしてこれからどんなカクテルの時代がやってくるのだろうか・・・

2014.11.10 (月曜日)

第43話は「カクテルの歩み 現代編」についてである。
19世紀後半の製氷機誕生以来、カクテルの数が増え、その数は今や数千種類とも言われている。
80年以降ヨーロッパやアメリカを中心にさらに進化・発展していき、それはカクテルを作る技法や、提供方法、カクテルを飲むスタイルが多様化していくことにもなっていく。
カクテルの進化が加速していったのは21世紀を迎え、人々の生活が豊かになり、カクテルに使われる主材料や副材料が世界中で簡単に手に入るようになった事と、インターネットの普及でバーテンダー達が世界のカクテルの最新情報を直ぐに見聞出来る事であろう。
新しいカクテルの技法やスタイルではリキュールやフレーバーシロップを一切使わず、果実や野菜、ハーブをお酒などと組み合わせて作ったミクソロジーカクテルや、食材に炭酸ガスを混入し、ムース状に仕上げるエスプーマ・マシン、両手に持ったマグカップに交互に液体をダイナミックに投げ移し、空気中に揮発成分を蒸発させ、旨み成分とアルコール成分を結合させていくスローイングなどがあるが、もともと欧米で流行したものが日本に入ってきたものだ。
これからもカクテルは未来に向けて進化・発展していくだろう。
それは飽くなき探究心で、カクテルというものを磨き続けるバーテンダー達が世界中にたくさんいるからである。

2014.11.04 (火曜日)

第42話は「カクテルの歩み 大戦後のカクテル編」についてである。
第二次世界大戦が終わり、ヨーロッパ、とくにフランスとイタリアがカクテルの世界で力を発揮し始める。
ワインを使ったキールやベリーニなどのライトでありながら甘味をしっかりと持ったものがつくられ、そこから世界に向けてワインカクテルに火が付いていったと言ってもいいだろう。
一方、アメリカではミキサーを使ったシャーベット状のフローズンカクテルがこの時代に生まれることとなる。
また使用するベースのお酒の味をできるだけそのままに出したバーボンやテキーラベースのカクテルがつくられ、ライト嗜好からウォッカトニックやスクリュー・ドライバー、テキーラ・サンライズ、ワインクーラーなどの口当たりの爽やかなカクテルが増えてきた。
それが70年代に入り、より大きな流れとなり、ホワイト・レボリューション(白色革命)が起こったのだ。
それによりウイスキーやブランデーというブラウン・スピリッツではなく、ウオッカ、ジン、ラム、テキーラなどのホワイトスピリッツが主流となってきたのだ。
中でもアメリカ国内でバーボンウイスキーの消費量を抜いたのはロシアで生まれたウォッカであり、そのウォッカをベースにした口当りのいいフルーティーなカクテルが次々と誕生し、ブルーハワイやシーブリーズ、ケープコッダーなどがブームとなる。
戦後から70年代までの時代でヨーロッパ、アメリカにおいて共通するのはアルコール度数の低いカクテルが多くみられるようになった。
それはカクテルがより日常的に、より一般的に楽しまれるようになった事を意味するものである。

2014.10.27 (月曜日)

第41話は「カクテルの歩み 二大スタイル編」についてである。
アメリカで施工された禁酒法によって、バーテンダーがヨーロッパに流れ、それは同時にアメリカンスタイルがヨーロッパに流れる事にもなる。
禁酒法時代の1920年にヨーロッパでアメリカンスタイルの飲酒文化が広まり、若者が夜遅くまでアメリカ生まれのジャズやお酒を楽しむアメリカン・バーが数多く導入されていった。
当時ロンドンのサボイ・ホテルのアメリカン・バーで勤めていたハリークラドック氏も禁酒法時代のアメリカを離れ、ヨーロッパで活躍したバーテンダーの一人であり、カクテルブックのバイブル的存在である「サボイ・カクテルブック」を出版したのもこの時代なのである。
当時ヨーロッパより一歩進んでいたアメリカのバーテンダーのカクテル技術や知識が彼によって浸透していき、アメリカン・スタイルが確立されるようになった。
この偉大なバーテンダーはホワイトレディーなどの今ではスタンダードとなっているカクテルを数多く創作し、ドライマティーニやシンガポールスリングを改良して、世界中のBarで飲まれるカクテルへと広めていく事となる。
こうしてカクテルの世界は自分な文化から生まれたアメリカン・スタイルと、アメリカの飲酒文化を取り入れながらも誇り高きヨーロッパの伝統を持ったヨーロピアン・スタイルの二つの潮流を生み出し、時代を作っていったのだ。

2014.10.20 (月曜日)

アメリカで起こったこの出来事により、カクテル文化が一気に世界に広まっていった。
第40話は「カクテルの歩み 禁酒法編」についてである。
アメリカにおける禁酒法の制定は第一次世界大戦が終結して、まもなくの1920年で、施行されてから撤廃される1933年まで14年近く続いたものだ。
もともと宗教での規律や女性の選挙権獲得の動きから高まり、第一次世界大戦後の敵国・ドイツ系移民がビール業界を牛耳っていたことから、それを締め付ける意味合いが強かったと言われている。
禁酒法はアルコールの製造、販売、運搬を禁止したもので、飲む事を禁止したものではなかったので「高貴なる実験」や「ザル法」とも揶揄されるように、抜け穴が多いものであった。
というのも禁酒法が施行されてからの状況が悪化したからである。
街の酒場を規制した結果、もぐり酒場の数が3倍くらい膨れ上がり、処方箋があれば医療用としてウイスキーなどのお酒を買えた為に医者や取締官が容易に買収された。
そして工業用アルコールでの密造で失明や死亡するなどの健康面でも多くの犠牲者を出したのだ。
また密造・密売が横行したためギャングやマフィア資金の温床となり、その抗争による治安の悪化も問題となった。
結局、禁酒法に対する反感が高まり景気対策もあって撤廃する事となったが、その間に禁酒法に嫌気がした多くのバーテンダー達は活躍の場を求め、ヨーロッパに渡った。
それにより彼らがヨーロッパのお酒や華やかなリキュールと出逢い、様々なカクテルが生み出され、皮肉な事にヨーロッパでのカクテルブームに拍車をかける事となったのだ。

2014.10.14 (火曜日)

カクテルの起源や歴史について書き進めておくとしよう。
第39話は「カクテルの歩み 開花編」についてである。
カクテルが大いに発展・開花したのはアメリカの存在が大きい。
独立戦争後、1783年にパリ条約で独立を勝ち取ったアメリカ合衆国は歴史的にも、文化的にもまだ若く、また国民が多民族で構成されていたため、飲酒文化も伝統やしきたりといったものにとらわれる事がなかったため、カクテルの新しい飲み物や飲み方の創作に積極的であったのだ。
とくに19世紀後半にマンハッタン、20世紀に入ってマティーニというカクテルが生まれ、人気となった。
そうした風潮や行動が、第一次世界大戦の際、ヨーロッパに派遣されたアメリカ軍により伝えられ、世界へのカクテル普及の原動力となった。
21世紀となった現代でもマティーニは「カクテルの王様」、マンハッタンは「カクテルの女王」と呼ばれ、世界中で親しまれている。
そして第一次世界大戦後、カクテルが世界に広まっていくもう一つの大きな出来事がアメリカにて起こったのだ。

2014.10.06 (月曜日)

カクテルの起源や歴史について書き進めておくとしよう。
第38話は「カクテルの歩み 近代編」についてである。
古代ローマより始まったカクテルの歴史は中世のヨーロッパでのホット・カクテルに続き、19世紀後半にはコールド・カクテルを誕生させることになる。
それはこれまで冬季に川や湖畔の近くに住む人が結氷したものを使うか、超富裕階級が結氷期の氷を氷室に保存すること以外では不可能だった氷の使用が人工の製氷機が出現したことで、年間を通じて可能になったからである。
現代ではあたり前の氷がいつでも手に入るようになったのがこの時代であり、カクテル文化に大きな変化をもたらした。
製氷機が製品化されるのと同時に、カクテルをシェークしたり、ステアしてつくる技術が登場し、サイドカーやマティーニ、マンハッタンなどのキリっと冷えたカクテルがつくられるようになった。
当時のこのようなカクテルはまだ主に上流階級の、それも男性の飲みもので、食前酒として飲まれていたこともあり、アルコール度数は強いものが多かったようである。
氷を使用してしっかり冷やしてつくられるコールド・カクテルは誕生してから実は100年ちょっとしか経ってないことになる。
だがこの100年で、近代文明の発展により、カクテルの歩みが一気に加速していったのは間違いない。

2014.09.29 (月曜日)

カクテルの起源や歴史について書き進めておくとしよう。
第37話は「カクテルの歩み 中世編」についてである。
中世になり、12~17世紀のヨーロッパでは冬季の寒冷化が起こり、冬の間は事前に飲み物を温めて飲むスタイルが普及した。
14世紀あたりはワインと薬草を大きな鍋に入れ、火で焼いた剣をそこにいれて温めて飲んでいたと言われている。
これが現在のフランスでのヴァン・ショー、ドイツでのグリュー・ヴァインというホット・ワインの祖先となり、中世ヨーロッパで生まれたホットカクテルの名残と言える。
おそらくはいきなり誕生したものではなく、古代から自然に引き継がれてきたものであると考えられる。
中世には蒸留酒も生まれ、ビールやワインしかなかったカクテルの世界の幅が広がり、1630年頃、インド人によって生まれたのがボールのようなものに入れたパンチと呼ばれるカクテルで、当時のカクテル普及のひとつのきっかけとなった。
インドの蒸溜酒のアラックをベースに、砂糖、ライム、スパイス、水の5つの材料を大きなパンチ・ボウルに入れてミックスし、注ぎ分けて飲むもので、これがインド在住のイギリス人に好まれ、やがてイギリス本国へ伝わり、家庭へと入り込み、パーティーで供されるようになった。
そしてインドに比べても寒冷なヨーロッパでは温めたホット・パンチが主流となったのだろう。
その後にはインド駐在のイギリス陸軍がジンにキニーネが入った炭酸をミックスして、当時流行っていた病である、マラリア防止のために飲用していたのが、今世界で最も飲まれているカクテル ジントニックの始まりだと言われている。
このように数百年前の中世には形は違えど、現代につながるカクテル文化が根付いていたと伺い知ることができるのである。

2014.09.22 (月曜日)

カクテルの起源や歴史について書き進めておくとしよう。
第36話は「カクテルの起源」についてである。
カクテルの始まりは古代ローマや古代ギリシャ、古代エジプトの時代まで遡る事になる。
これは「酒+何か」というカクテルの定義に当てはまるもので、古代からあったワインやビールなどのお酒の質が粗悪なもので、 美味しいものではなかったため、少しでも飲みやすくするための手段であったと考えられる。
古代ローマ、古代ギリシャでは、そのままでは保存できないワインに熱草根木皮や粘土、石膏・石灰などを混ぜたものを保存しており、それを海水で割って飲むことが一般的なワインの飲み方とされていたようだ。
古代エジプトではビールにさまざまな材料を加えたものが飲まれており、これにはカルミ(蜂蜜を加えたもの)、チズム(ういきょうやサフランを加えたもの)、コルマ(korma、生姜と蜂蜜を加えたもの)などがあったとされている。
こちらも「酒+何か」というカクテルの定義に当てはまる。
他にも原始的なカクテルとしては、唐で作られていたワイン+馬乳の乳酸飲料が飲まれていたようだ。
こうしたワインやビールに何かを加えて、飲むスタイルは今から何千年も前に生まれたカクテルの起源であり、原始的な姿である。
ただまだ当時は「カクテル」という言葉はなく、古代人がそれをどう呼んでいたのかは気になるところだ。

2014.09.16 (火曜日)

カクテルの起源や歴史について書き進めておくとしよう。
第35話は「カクテルの語源」についてである。Cocktail(カクテル)という言葉がいつ、何処で誕生したのかは今だに明らかにはされていない。
その諸説はイギリス説、アメリカ説、メキシコ説などと複数存在しているが、定かではない。
その説の中でももっともよく話に出てくるのは昔、メキシコのある半島の港町にイギリス船が入港した時の話であろう。
港の酒場で船の船員達が目にした光景はカウンターで少年がオンドリの尻尾のような、きれいに皮をむいた木の枝でお酒と何かを混ぜ合わせてドリンクを作っていた。
当時のヨーロッパではお酒はストレートでしか飲まなかったので、その行為が物珍しく、それは何なのかを少年に聞いてみた。
その少年はその時使っていた木の枝の事を聞かれたと勘違いし、これはコーラ・デ・ガジョ(スペイン語でオンドリの尻尾)と答えた。
コーラ・デ・ガジョを英語に直訳するとテール・オブ・コックとなり、お酒と他の何かを混ぜ合わせた飲み物をテール・オブ・コックと呼ぶようになった事から、言い伝えていく中でコックテール、カックテール、カクテルと変化していったという説である。
このカクテルという語源の謎もカクテルのロマンのひとつと言っても言い過ぎではない。
人々はカクテルを飲んでアルコールに酔うのではなく、そのロマンに酔うのだろう。

2014.09.08 (月曜日)

飲む時間帯や目的によっての分類ができる、カクテルであるが、そもそも「カクテルとは何なのか?」というカクテルの起源やその歴史について新たに書き進めていくことにしよう。
第34話は「カクテルの定義」である。
お酒には二通りの飲み方がある。一つはそのまま飲むことで、ストレートやストレートアップと言い、お酒そのものの味わいを生(き)のままで味わうものだ。
そこに氷を入れたものをオン・ザ・ロックス。
他にオーバー・ロックス、オーバー・アイスと言う表現もある。
そして二つ目はストレート以外の氷や器具を使ってお酒と何かを混ぜて作るミックス・ドリンクであり、いわゆるこれがカクテルである。
それは数種の酒、果汁、薬味などを混ぜ合わせ、新しく創作した飲み物全般と考えて良いだろう。
Cocktailの読み方はカクテル、コックテール、コクテル、カクテール、カックテールなどがあるが、綴りは日本も欧米も同じで、世界共通言語と言える。
そんなカクテルは作り手や飲み手の工夫によって様々な組み合わせが可能となり、現代の新しい器具や技法によってさらに幅が広がり、その数は星の数ほどの無限にあるというのがカクテルなのである。
その無限の可能性があるからこそ、カクテル創作に終わりはないのだ。

2014.09.01 (月曜日)

カクテルには大きく食前、食中、食後の3つに分類されるのが一般的であるが、それ以外の時間帯や目的によるカクテルの分類もある。
第33話は「シーンに合わせたカクテル」である。食前・食中・食後というカクテルの分類の話をしたが、それ以外にも遅い時間帯に飲むカクテルをサパー・カクテル。
寝る前に飲むカクテルをナイト・キャップ・カクテル。
パーティーやおめでたい時に飲むシャンパン・カクテルがある。
サパー・カクテルはビフォア・ミッドナイト・カクテルとも呼ばれ、夜が深まってから飲むのでアルコール度数が高く、辛口なものが多い。
ナイト・キャップ・カクテルは眠気を誘う、いわゆる寝酒。
リラックスできるような効果のあるものも分類される。
シャンパン・カクテルは結構披露宴や祝宴パーティーなどで供されるものでシャンパンの優雅な雰囲気を活かした カクテルである。リバイバーという迎え酒というものもある。
お酒を飲み過ぎた苦しみをお酒で紛らわせているだけでまったくその場しのぎのものだ・・・
数えきれないほどのカクテルをシーンに合わせてチョイスし、そのカクテルを飲む事でその雰囲気やそれを飲む人々の空気感を作り出し、 そのシーンにドラマが生まれるのだろう。
何人も人生を楽しむためには、カクテルの存在は欠かせない。

2014.08.25 (月曜日)

第32話は食中酒である。
食前酒(アペリティフ)や食後酒(ディジェスティフ)と違って、フランス語で食中酒を正確に表す言葉はない。
アペリティフ(食前酒)はフランス語で、もともと食中に楽しむワインと区別するためにアペリティフワインと呼ばれていたものからワインが削られ残った言葉であるから、フランスでの食中に飲むのはワインであり、それが食中酒にあたる。
英語での食中酒はオール・デイ・カクテルと訳され、一日の中で食前、食中、食後を問わず、特に飲む時間帯に向き不向きがなく、いつ飲んでも合うお酒やカクテルとなる。
アペリティフやディジェスティフの分類に属さないカクテルを指すと考えれば良い。
食中酒はアルコール度数はあまり強くなく、前の料理のテイストを消し、次の料理をよく味わえるようにする役目もある。したがってワイン、ビール、日本酒などの醸造酒が好まれるのだ。
恋人と、親しい友人と、同僚と、家族と、取引会社と、初対面の人と、飲む相手によって飲み方も、飲むものも違ってくる。ただどんなシーンでも料理を食べながら相手との会話を円滑にするために、そしてより相手を知り、知ってもらうためにお酒が大人の世界には必要とされている。
これはお酒を通して酔うためではなく、人との関わりを楽しむためと言えるだろう。

2014.08.18 (月曜日)

カクテルというのは飲む時間帯や目的によっても分類される。
その時々やシーンによってお客様がどんなカクテルを飲めば良いかを示すのもバーテンダーの大事な役割である。
世界での食習慣の違いはあるが、カクテルには大きく食前、食中、食後の3つに分類されるのが一般的である。
第31話は「ディジェスティフ(食後酒)」である。
フランス語でディジェスティフと言い、英語ではアフター・ディナー・カクテルと言う食後酒は食事の後に余韻を楽しむために飲むアルコールの総称になる。
デザートカクテルとも言えるだろう。
食後酒はその名の通り、食後の口直しのためでもあるが、ディジェスティフは「消化を助ける食後酒」という意味のフランス語で消化の促進のために飲まれるカクテルでもあり、食前酒とは逆に甘く香り豊かで、華やかなものが多く、ほとんどが甘口に仕上げられている。
ブランデーやリキュールを主体に使ったアレクサンダーやグラスホッパー、ブラックルシアン、ゴットファーザーなどでが有名である。
食後酒のカクテル以外でもスピリッツやウイスキー、ブランデーといったアルコール度数が強めのものや、香りが強いものが好まれる。
イタリアではグラッパ、フランスでは貴腐ワインやアイスワインなどの甘口ワインが登場する。
大人の男女はレストランのディナーでお腹が満たされた後、心を満たすためにBarを訪れ、甘口のカクテルやお酒を飲み、その甘い余韻に浸りながら、夜が深まる時を過ごすのだ。
その時間が男女の仲も深めるというのは言うまでもない。

2014.08.11 (月曜日)

カクテルというのは飲む時間帯や目的によっても分類される。
その時々やシーンによってお客様がどんなカクテルを飲めば良いかを示すのもバーテンダーの大事な役割である。
世界での食習慣の違いはあるが、カクテルには大きく食前、食中、食後の3つに分類されるのが一般的である。
第30話は「アペリティフ(食前酒)」である。
フランス語でアペリティフ、英語でアペタイザーという 食前酒とは言葉の通り食事前に飲むものであるが、そのカクテルには食欲を高める効果があるものが選ばれる。
欧米ではショートカクテルやシェリー酒など、アルコールの強めの酒を飲むことが多く、マティーニやマンハッタンなどの強めのものや、カンパリやベルモットなどが好まれる。
日本では白ワインなどをベースにしたアルコールが弱いカクテルが多く、キールやミモザなどのワイン系、スプモーニやジントニックなどが人気である。
欧米とのアルコールの強弱の違いはあれど、どちらも苦味や辛口のものが多い。
苦味や酸味が胃を刺激して食欲を高めたり、辛口が味覚を研ぎ澄ますのだ。
恋人との美味しいディナーの前にはBarで食欲を高め、お互いの気分が高まることで、会話が弾み、ディナーが盛り上がる事は間違いないだろう。

2014.08.04 (月曜日)

新しい章ではBarで提供される数え切れないほどの種類があるカクテルの分類について書き進めていくとしよう。
第29話は「ロング・ドリンク」についてである。
Barでは氷の入っグラスで提供され、ゆっくりとした大人の時間や空間を作り出すカクテルがある。
それがロング・ドリンクである。
タンブラーやコリンズなどの大きめのグラスで作られ、氷やソーダが入っているためにいつまでも冷たさを保たせるコールド・ドリンクや、熱湯やホットミルクなどを加え、熱い状態で飲むホット・ドリンクがある。
コールドもホットも、人が美味しいと感じる温度は平均体温のプラスマイナス25〜30℃と言われているので、冷たい状態は7〜12℃、あったかい状態は62〜67℃を適温として提供される。
そして様々なスタイルの作り方や提供方法があるのはおいおい紹介していくとしよう。
ロング・ドリンクはショート・ドリンクに対して、時間をかけて飲むタイプのカクテルで、ゆっくり、じっくり酔えるものだ。
だからこそ恋人との食事をしたり、友人との語り合いであったり、独りで物思いにふける大人の夜にはロング・ドリンクが適していると言える。
今夜もBarカウンターで時間をかけて飲むロング・ドリンクによって、大人のゆっくりとした癒やしの時間や空間を作り出すことになる。
それは人々がBarに求めるのはただ酔えるというだけではなく、その滞在する時間や空間という非日常の演出も含めているからだろう。

2014.07.28 (月曜日)

新しい章ではBarで提供される数え切れないほどの種類があるカクテルの分類について書き進めていくとしよう。
第28話は「ショート・ドリンク」についてである。
Barではスタイリッシュなカクテルグラスという足付きのグラスで出されるカクテルがあり、これがショート・ドリンクである。
ショート・ドリンクは短時間(ショート)で飲み切るべきカクテルで、主にジンやウォッカなどのスピリッツや、ワインをベースにリキュール類、果汁、卵、香辛料などを混ぜ合わせ、カクテルグラスに注ぎ入れる。
混ぜ合わせる方法にはシェイカーや、ミキシンググラスなどを使用することになる。
作る段階で氷を使い、材料を冷やしており、グラスには氷が入らないため、約10分から15分で飲まないと温度が上がってしまい、ぬるくなってしまう。
ショート・ドリンクはアルコールが強めのカクテルが多く、それは短時間で気持ちよく酔える、そして人を酔わせるカクテルとも言える。
女性を酔わせる飲み口は優しいが、アルコール度数が高い、レディーキラーと呼ばれるカクテルはショート・ドリンクの中に多いのだ。
今夜もBarカウンターで気持ち良く酔えるショート・ドリンクは大人の男女の駆け引きには欠かせないカクテルとして多く登場にする。
人々はBarでカクテルに酔い、異性に酔うのだろう。

2014.07.22 (火曜日)

第27話は バーテンダーが扱う道具の番外編「バーブレンダ―」である。
Barには豪快で空気を読まない、にぎやかなお祭り男がいる。それはバーブレンダーと呼ばれている。
バーブレンダーとは夏本番のBarでよく登場するフローズンスタイルのカクテルなどに用いる器具である。
カクテルの材料とともにクラッシュアイス(細かく砕いた氷)を入れ、尖った刃の高速スクリューで混ぜ合わせ氷結した状態に仕上げる。
その時ばかりはゆっくりと時間が流れる静かなBarも氷を砕きながら混ぜ合わせる豪快なスクリュー音でお祭りのように、にぎやかな雰囲気になるのだ。
バーブレンダーは空気を読まずに目の前の液体と氷を混ぜ合わせ、フローズンにするのが彼の唯一の仕事であり、その彼が生み出したフローズンカクテルは飲む者に最高の涼しさと爽快感を与える事は言うまでもない。
今夜、静かでゆっくりとした時間をかき消すような豪快なスクリュー音が聞こえたなら、それはバーブレンダーのお祭りを始める合図に間違いない。

2014.07.14 (月曜日)

第26話は バーテンダーが扱う道具の番外編「ペティナイフ」である。
Barにはバーテンダーと似た者同士の実直な性格で、相当鋭いキレ者がいる。
そのキレ者は本当に触れるものを切りさばくペティナイフだ。
ペティナイフはBarでバーテンダーが使用する小さめの洋包丁である。
なにも包丁を持つのは料理人だけではない。
一流のバーテンダーは包丁の扱いも一流だ。
バーテンダーが振るう刃はありとあらゆる果物をカットし、仕込みでカクテルの材料の準備から、飾り付けのデコレーション、またBarではよく頼まれるフルーツの盛り合わせなどと、幅広い活躍のシーンがある。
ただカットするだけでなく、飾りに使うような美しく魅力するような切り方はペティナイフの切れ味はもちろんだが、バーテンダーのカッティング・スキルが必須条件である。
自分の技能を信じてそれを誇りとし、納得できるまでひたすら仕事をする実直な性格という面ではペティナイフもバーテンダーも似た者同士なのかもしれない。
ペティナイフもまたBar、バーテンダーにはなくてはならない存在であるのは確かだ。
今夜、Barカウンターで鋭い切れ味を魅せてくれるペティナイフの輝きに見惚れてみては如何だろうか?

2014.07.7 (月曜日)

第25話は バーテンダーが扱う7つの道具のひとつ「アイス・トング」である。
Barには一度掴んだらものを簡単には離さない、バーテンダーの右腕がいる。
それがアイス・トングだ。
トングというのは、パスタやパンなどを挟んで掴むものだが、その中でもアイス・トングは氷用であり、バーテンダーはアイス・トングを使って氷をグラスやシェイカーの中に入れていく。
だから通常のトングと違い、掴む部分はギザギザになっており、滑りにくいのだ。
ただそうはいっても氷なので、滑らさずにしっかり掴むにはバーテンダーの手さばきが必要である。
そして微妙に形や大きさの違う氷をシェイカーやグラスに合うように見極めて入れていくのはバーテンダーの目とスキルが必要である。
アイス・トングの形は数々あり、ギザギザであるものや、手の形をしたものなど、バーテンダーは自分の手としてしっかり馴染むものを使うのだ。
今夜もBarカウンターで、バーテンダーの右腕であるアイス・トングがバーテンダーに扱われ、氷を掴み、バーテンダーの夢を掴む手伝いをしている光景を見ることはなるだろう。
そして氷だけでなく、ついでにお客様のハートも掴んでしまうかもしれない…

2014.06.30 (月曜日)

第24話はバーテンダーが扱う7つの道具のひとつ「ストレーナー」である。
Barにはミキシンググラスと常にコンビを組んでいる者がいる。いわゆる相棒と言われる存在だ。
それがストレーナーである。カクテルを作る時、大きくはシェイク、ステア、ビルドという3つの技法があり、このコンビで作り出す技法をステア(第23話)という。
カクテルをミキシンググラスから注ぎ出す時、氷などを受けて氷が一緒に入らないように濾(こ)す、濾し器としての機能がある。
縁にらせん状のワイヤーが巻いてあり、ミキシンググラスに蓋のようにかぶせて使われ、マティーニやマンハッタンなどの名作カクテルを作る際にこのゴールデンコンビのチカラを発揮し、お客様を魅了するのだ。
だからBarではミキシンググラスの相棒として必ずストレーナーがいる。
そしてストレーナーには隠れた技があり、らせん状のワイヤーを取り外し、シェイカーに卵白と一緒に入れてシェイクすることで、即興のメレンゲを作ることもでき、卵白を使ったカクテルも楽しめるのはバーテンダーのいるBarならではであろう。
今夜は是非、Barカウンターでステアで作られる名作カクテルを注文して、ゴールデンコンビの活躍に魅せられてはどうだろうか。

2014.06.23 (月曜日)

第23話は バーテンダーが扱う7つの道具のひとつ「ミキシンググラス」である。
Barにはお酒のありのままの姿を見させてくれる技法があり、その技法のためだけに活躍する懐の深い存在がいる。それがミキシンググラスだ。
大きく厚手のガラス製で注ぎ口がついていて、ストレーナーという濾(こ)すための道具とのコンビで多く登場する。このミキシンググラスを使用する技法が「ステア」と言い、カクテルの王様マティーニやカクテルの女王マンハッタンなどはこの技法で作られる。
他にもギブソンやバンブー、パリジャン、ロブロイといった世界的な名作カクテルはこの技法で作られ、ミキシンググラスの器が大きく、心のおおらかさがその存在感を世界に認めさせたのだ。
「ステア」というはお酒の比重が近く、混ざり易いもの同士で素早く冷やし混ぜ合わされるもので、その仕上がりはドライであり、繊細で、お酒の持ち味を活かした、ありのままの味をストレートに出したい時に使われる。
バーテンダーはこのミキシンググラスを使用する際、その繊細な作り方と仕上がりに、むしろシェイクするより緊張感も持って臨むのである。
今夜、Barカウンターに座ったなら、ミキシンググラスによって作られるカクテルを飲む事で、あなた自身もありのままの自分になれるかもしれない…

2014.06.16 (月曜日)

第22話はバーテンダーが扱う7つの道具のひとつ「スクイザー」である。
Barには黒子役に徹する名バイプレーヤーがいる。
映画やドラマ、演劇は主役一人で演じるものではなく、主役を引き立てる周りの脇役の存在があって初めて成り立つものであり、上手く主役を引き立てる脇役は特に名バイプレーヤー(名脇役)と呼ばれる。
Barでのその存在は間違いなく、スクイザーであろう。
スクイザーはフルーツを搾るための機材であり、フルーツ達の新鮮な果汁をうまく搾り出し、美味しいカクテルを引き立てる大事な役割を担う。
営業前の仕込み中に搾るので、スクイザーは営業中にお客様の前にはあまり登場しないで、あえて黒子役に徹するのだ。
だがBarにはなくてはならない事をバーテンダーの誰もが認めている存在である。
今夜もBarカウンターでは名バイプレーヤーのスクイザーが搾り出したフルーツ果汁を使った主役のカクテルにスポットライトがあたる事になるだろう。
その裏方にはスクイザーの存在があることを忘れないで欲しい。

2014.06.09 (月曜日)

第21はバーテンダーが扱う7つの道具のひとつ「アイスピック」である。
Barには決して信念を曲げない頑固者がいる。
それがアイスピックだ。
本格的なBarでは氷屋から貫目(3.75kg)という塊で氷を購入し、その氷をアイスピックが黙々と砕いていく。
カクテルやウイスキーのロックスタイルには不可欠で最も重要と言われる氷を作り出すのだ。
その寡黙な仕事ぶりはまさに昭和の親父のように職人気質な頑固者である。
トンガった錐(きり)の部分が一本の槍になったもの、二股になったもの、三股になったもの、また錐の長さも種類があり、いろんなスタイルがある。
しかしどのアイスピックも信念を曲げないだけあって真っ直ぐである。そしてバーテンダーも怪我をしないように扱いに注意するほど、見た目も性格もトンガっているが、アイスピックが削り出すその氷は実に芸術的で優雅なのだか、これもBarならではの光景である。
今夜もバーテンダーがこの頑固者と作り出すアーティスティックな氷でBarを存分に味わって頂きたい。

2014.06.02 (月曜日)

第20話はバーテンダーが扱う7つの道具のひとつ「メジャーカップ」である。
Barにはバーテンダーの女房役のメジャーカップという存在がいる。バーテンダーが投手なら、メジャーカップは捕手というわけだ。
彼女は真面目で几帳面である。
Barでのメジャーカップは通常、30mlと45mlを計れる計量器になっており、バーテンダーが注ぎ入れるお酒や材料の全てを見事に受け止める。たまにはこぼす事もあるが、それは投手の暴投のように、バーテンダーの手元が狂うことが原因で彼女に非はない。おそらくこのメジャーカップを使用するのは日本のBarのバーテンダーだけだろう。
日本人特有の正確で細かさがしっかり計るというこのスタイルを生み出したのだ。30ml側で10mlや15ml、45ml側で30mlや40mlを計るのだが、線がある訳ではないので、バーテンダーとの信頼関係も必要になってくる。
ただ計量器としての役割だけなら、メジャーカップである必要はない。
メジャーカップからグラスや、シェイカーに注がれる液体の流れはまるで滝のように美しく、その時ばかりはカウンターの時が止まったような感覚になる。情緒あるゆったりとした時間を作り出すのも彼女の役割であり、妙技なのだ。
今夜、Barカウンターにゆったりとした時間が流れたなら、間違いなく彼女の仕業だろう。

2014.05.26 (月曜日)

第19話はバーテンダーが扱う7つの道具のひとつ「バースプーン」である。
Barには色んな顔を持った、多重人格のバースプーンという存在がいる。彼は自分が何者で、本当の自分が誰なのかを解っていない。
ある時はカクテルや蒸溜酒などをグラスに入れ、混ぜるという意味の攪拌(かくはん)するのに用いるスプーンという顔だ。
柄が長く、中央部分はらせん状にねじれており、華麗なターンを繰り返すその姿に誰もが魅了されるものだ。
またある時はスプーンの反対側のフォーク部分でオリーブやチェリーなどを瓶から取り出したり、果物の盛り付けをするという別の顔である。
色んなものをのせたり、氷をよけたりしてくれる、頼もしい存在だ。
またカクテルブックに登場する1tsp(ワンティースプーン)という単位の計量器としての別の顔もある。約5mlという小さじ一杯の細やかな仕事をこなしてくれる。
バースプーンは本当の自分が何者なのかを見つけるために今日もBarカウンターで、華麗で頼もしい色んな1面を魅せているのだろう。

2014.05.19 (月曜日)

第18話はバーテンダーが扱う7つの道具のひとつ「シェイカー」である。
Barには鉄の結束を持った兄弟がいる。長男トップ、次男ストレーナー、 三男ボディーのステンレスやシルバーからできた3兄弟である。
シェイカー3兄弟の仕事は「冷やす」、「混ぜる」、「空気を含ませる」という 3つの大事な役割がある。
ただ「冷やす」のではなく、急速に冷やすので、想いは決して薄まらない。
ただ「混ぜる」のではなく、複数の混ざりにくい材料がシェイカーによって、 「ひとつ」となるのだ。
液体に「空気を含ませる」事で アルコールのカドをとり、どんな荒れくれ者も優しくしてしまう。
そんなチームワークを大事にするこの兄弟の鉄の結束の所以(ゆえん)はトップ、ストレーナー、ボディー、どれをとっても他のシェイカーとはかみ合わない。
この3兄弟はこの3兄弟でしか、シェイカーとしての役割を果たす事ができないのだ。
鉄の結束を持つ3兄弟が今夜も兄弟仲良く Barカウンターの中心で、楽しそうにシェイクの音を響かせている。

2014.05.12 (月曜日)

第17話は「Barの雰囲気」である。
Barの雰囲気は時に異性を口説く側の味方になり、時に異性に口説かれる側を騙すこともある。
通常、Barと呼ばれるお店は薄暗い店内が多く、暗闇は人を適度に緊張させ、興奮させるもので、 その不安感を打ち消すために誰かの存在を近くに感じていたいという感情が生まれる。
また暗闇効果で容姿での欠点を隠してくれる事による安心感があり、そして近くにいかないと 見えないという中では、近距離にいる事で好意を抱きやすくなり、異性との関係が親密なものに なる可能性が高いのだ。
だからこそBarがデートをしたり、プロポーズをする場として使われる事が多いのだ。
暗さだけではない。その暗さの中に照明からの優しく、やわらかい光で、Barを行き交う人々をまるで舞台の主役のように照らしている訳である。
昼間などの明るい場所に比べ、暗さの中にある光のあたたかさはより強調され、Barという幻想的な雰囲気を作り出す。
だからこそその雰囲気では身体の距離も心の距離も近づいてしまうのかもしれない。
Barではその暗がりと照明を、そしてバーテンダーを味方に付けた上で異性を口説くべきであろう。

2014.04.28 (月曜日)

第16話は「Barのバックバー」である。
バックバーはBarの顔とはよく言ったものだ。
Barにはお店ごとの顔があり、表情がある。
それを作り上げるのは1本1本のお酒達である。
お店によってウイスキーが多いお店、リキュールの多いお店、希少なお酒が揃っているお店など店主の想いやこだわりがバックバーに表れるものだ。
日比谷Barもチェーンでありながら、バックバーはひとつとして同じものはない。
バーテンダーには聞こえてくる、
「今日は俺を使え!」
「いつでも準備ができている!」
「いい仕事するぜ」
「何杯でも任せろ」
とバックバーに並ぶギラついたボトル集団の頼もしい声だ。
バックバーは店主、バーテンダーと共にお客様を楽しませるお店の顔であり、最高の仲間達なのである。
今夜耳を澄ませば、ギラギラしたお酒達の声がお客様にも聞こえてくるかもしれない。

2014.04.21 (月曜日)

第15話は「Barのカウンター」である。
Barには物言わぬ歴史の証人がいる。
いや、正確には人ではない、横木(カウンター)である。
Barではこれを「止まり木」とも表現する。
飛ぶのに疲れた鳥が羽を休めるための横木だ。
その横木は羽を休めに来た人々の喜びや楽しさを 分かち合い、怒りや哀しみを受け止める。
それが傷となりシワとなりシミとなるのだ。
決してぶつけてしまって付いた傷ではない・・・たぶん。 ただの横木がBarという空間でバーテンダーの 血と汗と涙が染み込み、お客様の喜怒哀楽と向き合う事で バーカウンターという雰囲気を纏(まと)った「止まり木」
になっていくのだろう。
Barのカウンターはそのお店が在るかぎり、 バーテンダーやお客様の人生を見守り続け、
新たな歴史を刻んでいき、歴史の証人としての役目を果たすのだ。

2014.04.14 (月曜日)

第14話は「Barならではのサービス~託された一杯編~」である。
Barでは時に、お客様がバーテンダーに対して、 提供するカクテルを託される場合がある。
それはバーテンダーとの長い付き合いによる信頼で あったり、そのバーテンダーの技量を試すためで あったりと、Barならではのシーンである。
使う材料の指定がある場合や好きなフルーツや カクテルというヒントがある場合、またはお客様の 今の気分や、感情でカクテルを創作するように 要求される事もある。
一番バーテンダーを 悩ませるのが、お客様自身を見てイメージで 作ってくれとの要望である。
女性はまだイメージ しやすいが、中年の男性は非常に難しい(笑)が、 もちろん頼まれれば断らないのがバーテンダーである。
バーテンダーの仕事はカクテルを作るだけではない。
目の前のお客様との対話からその一杯を創作し、カクテルというカタチにして提供するまでがサービスと考えるからだ。
今夜、Barではどんなお客様の想いがカタチになるのだろうか?

2014.04.07 (月曜日)

第13話は「Barならではのサービス 〜好みの一杯編〜」 である。
Barはお客様が自分好みのカクテルや飲み方を 発見する場でもある。
お酒でもカクテルでも、いろいろ飲み比べて、自分の好きな味にたどり着く 事で、ずっと注文し続けるような運命的な一杯に出会うことになる。
それは日頃の疲れを癒し、頑張ったご褒美の一杯になったり、悲しかったり、落ち込んだりした時に飲む励ましの一杯にもなる。
バーテンダーはお客様の好みに的確なアドバイスする事で、 お客様好みの新たなお酒やカクテルと出会えるようにする。
これもBarならではのサービスではないだろうか。
だからお酒そのものの味わいやお酒同士を かけ合わした時の相性を数多く知っていなければならない。
Barでは是非、バーテンダーと一緒に自分好みの運命の一杯を見つけてみて下さい。
自分好みの素敵な一杯に出会えますように♪

2014.03.31 (月曜日)

第12話は「Barならではのサービス 〜はじめの一杯編〜」である。
Barでの「とりあえずの一杯」はビールではない。
一杯目に最も注文されるのはジントニックだろう。
世界一の人気者はシンプルだからこそ奥が深く、バーテンダーによって個性が現れる一杯であり、初めて訪れるBarのテイストを試す意味で、注文される事もある。
お店によって使うジンやトニックの銘柄、ライムの絞り方、グラス、そして作り方や出し方といったスタイルも店それぞれで、店主のこだわりや意志があると言える。
Barならではのはじめの一杯 ジントニックはバーテンダーがお店の想いを表現する一杯である。

2014.03.24 (月曜日)

第11話は「Barならではのサービス 〜メニュー編〜」である。
メニューは献立や商品の一覧を意味し、飲食店に来てメニューから選ぶのは当たり前の行為であり、そのメニューが店主の想いを代弁して語りかける場合もある。しかしその一方でBarほどメニューにないものを注文されるお店はないだろう。
メニューを見ずに注文をするお客様も少なからずおられるし、バーテンダーはそれに応えなくてはいけない。
Barではバーテンダー自身がメニューとなり、メニューにあるだけでなく、多くのカクテルレシピを覚え、お客様の要望に合わせて好みのものを出すというBarならではのサービスが求められるのだ。
メニュー自体がないBarがあるのもこういったサービスがあるからだろう。
バーテンダーに逢いに、そしてバーテンダー自身がメニューとなり、作られるカクテルに逢いにくる、それもBarの素晴らしさである。

2014.03.17 (月曜日)

第10話は「Barならではのサービス~おしぼり編~」である。
Barと呼ばれるお店で席に座ってバーテンダーが1番、最初にお出しするのはメニューでも水でもなく、おしぼりである。
おしぼりの名前の由来は江戸時代に旅先の宿で、水を張った桶と手ぬぐいが用意され、客は手ぬぐいを桶の水に浸してしぼり、汚れた手や足をぬぐったことからだと言われている。
今は紙おしぼりなどもあるが、Barでは今でも布おしぼりでの提供がサービスの一部として捉えられている。お店によっては巻いたまま渡したり、手にとって直接渡したり、季節によって熱い・冷たいなどと提供方法はさまざまだ。
またおしぼりに 香りをつけてお出しする店も多く、柔軟剤やアロマ剤を使用して気持ちよくおしぼりを使って頂けるように1枚ずつ丁寧に巻き直している。
疲れた人を癒すために笑顔で出し、涙を流す人にそっと出す、この1本のおしぼりに店主のお客様への感謝の気持ちや、 お店でどう過ごして頂きたいという強いこだわりが込められている。
ですからお店からのファーストメッセージとして受け取って頂きたいのだ。

2014.03.10 (月曜日)

第9話は「Barの看板」についてである。
Barというのが隠れ家(第8話)として存在するからその看板も目立たない事が多い。
中には看板のないBarもあるくらいだが、路地裏の店にとっては看板が頼りである。
今でこそ店の看板が大きな宣伝や広告に使われているが昔は「標識」「目印」の意味で
人々にその場所を示すためにあったと 考えられる。
雨の日も、雪の日も、暑い日も、寒い日も暗闇を照らし、人々にその存在を知らせ続ける、看板にも店主の想いが込められているのだ。
さて都内のあちらこちらにある日比谷Barも一つとして同じ看板はない。(たぶん)
たとえば銀座にある日比谷Barの看板にはこう書かれている。
「困った時の日比谷Bar」
我ながら言い得て妙である。

2014.03.03 (月曜日)

第8話は「Barの扉についてである。」
Barの扉は重厚で、開けずらい独特の雰囲気を醸し出している。
元々の大衆酒場から大きく変化があったのはアメリカの1900年代前半に施行された禁酒法にあるだろう。
酒の製造、運搬、販売を禁止した事で当時多くのバーテンダーは職を求めてヨーロッパに流れ、街では1件の酒場が潰れて、2件の違法なもぐり酒場が生まれたというくらい逆に密造、密売が横行し、ギャングの隠れ家としてBarが地下深くにもぐっていったという悪しき歴史がある。
現代でもまだホテルや街場でのBarの扉は重たく、中が見えない事が多いが、その理由としては怪しくしているのではなく・・・(汗)、Barという空間が外の世界と隔離され、重たい扉を開けば、そこには別世界があるからだ。
そしてBarカウンターに座れば性別、年齢、職業という、外の世界の自分自身とは違う別人でいることができるのも、Barの魅力のひとつではないだろうか。
確かに重たく、開けずらい扉を開くには勇気が必要であるが、その扉の向こうに広がる世界が自分のもうひとつの居場所をつくる事になるのだ。

2014.02.24 (月曜日)

第7話は「バーテンダーのライフスタイル」である。
グラスを磨くだけでなく、魂も磨き続ける(第6話) バーテンダーのライフスタイルはというと、 一般的なバーテンダーのイメージは朝方まで仕事をして、 昼過ぎに起きて、そこから店に行って仕込みして夕方に 開店して朝方まで仕事してという毎日・・・
どこで勉強や研究をしているのかというと、夜中や朝方の 営業終了後に店に残って行うのであって、営業中は華々しく 見えるかもしれないが、見えない所での努力があるのだ。
日比谷Barでは創業者の想いもあり、深夜営業を しないという営業スタイルを貫き、その時間を使って、 若いスタッフに大志を抱かせ、勉強させています。
バーテンダーとしての技術や知識はもちろん、 経営の勉強などもするので、朝から活動する一風変わったバーテンダー集団なのです。
そしていつ魂を磨いているのかというと、 それは人と接する事の多さにあるのではないか。
バーテンダーほど多くの職業、年齢、趣味・趣向を 持つ人々と出会い、会話し、人生に関わる職業はありません。
(もちろん人と会う職業は世の中にはたくさんあります。)
その様々な出会いの中、お客様に奉仕する一方で、 お客様から多くを学ばせて頂き、魂が磨かれる。
バーテンダー、それは学び続けるライフスタイルなのである。

2014.02.17 (月曜日)

第6話は「バーテンダーという生き方」である。
日本のバーテンダーは日本人気質の几帳面さ、きめ細かさ、味覚の鋭さで一杯のカクテルをつくり上げるプロセスを大切にしていて、お客様も高いレベルでそれを要求する。
それに対して欧米はカクテルをつくるプロセスが大雑把なところがあり、プロセスよりつくり上げたカクテルをどうお客様に楽しんでもらうかを大切にしている。
そんな日本と欧米のバーテンダーの違いはあるのだが、世界共通してバーテンダーはカクテルをつくるだけでなく、カウンターをはさんでお客様とのコミュニケーションをとり、様々な職業やタイプのお客様の良き理解者であるということだ。
「バーテンダーは牧師である。」という言葉があるように、牧師や神父が信者の告白を聞くような役割も時には果たしていて、バーテンダー相手だと何でもない話から、誰にも話せない秘密を打ち明けることもある。だからこそバーテンダーはカクテルやzお酒の技術や知識だけでなく、お客様の事や世の中のことを勉強・研究していく必要がある。
バーテンダーはグラスを磨くだけでなく、魂も磨き続けるのだ。

2014.02.10 (月曜日)

第5話は「バーテンダー」についてである。
バーテンダー(Bartender)という言葉は アメリカで生まれ、西部開拓時代の荒れくれ者から お店のお酒を守るために樽と客の間に置かれた、 Bar(横木)という言葉とTENDERという言葉が 合成されたのであるが、そのTENDERの意味の 一つは世話人や見張り人といった管理・監督という 意味合いがあり、もう一つは人柄が優しいさま、 愛情のこもったさまである。
Barとは飛ぶのに疲れた鳥が羽を休めるための 休息の止まり木であり、バーテンダーとは
その「止まり木(Bar)」の「愛であり、優しさ(Tender)」 であると訳せるだろう。
その後バーテンダーを職とする人が世界的に増えるにつれ、 アメリカでBarkeeper(バーキーパー)やイギリスで Barman(バーマン)という呼び名も用いられたが、 Bartender(バーテンダー)という世界共通語が今でも 広く知られている。
現代社会はストレス社会であるから、社会に疲れた 大人達が羽(ハート)を休めるために、「Bar」に訪れ、 「Bartender」から愛や優しさを奉仕される。
そんな仕事であるから、「バーテンダー」は 自分達の事を、「バーテン」とは呼ばない。
なぜならバーテンダーとしてのプライドを大事にしているからである。

2014.02.03 (月曜日)

第4話は「日本のBAR(酒場)の歴史2」についてである。
戦後、酒場元年は1949年。
Barの営業再開が認可され、種類販売が自由化された事で、全国にスタンドバーが生まれ出し、その代表的なのは1950年にサントリートリスウイスキーを大々的に売り出したトリスバーである。
国産洋酒も次々と発売され、1970年にかけて、大型化したトリスバーからスナック、カラオケバー、パブへと展開し、1980年代バブル景気の影響もあり、ホテルのBarが栄え、崩壊後から現在まで街場も和風、アジアン、ワイン、ハイボールと人々の飲むお酒の多様化によって、Barの形も本格的なものから、カジュアルなものへと幅が広がっていったのである。
時代が変わっても、Barが存在しているその理由はいったい何なのか?

2014.01.27 (月曜日)

第3話は「日本のBAR(酒場)の歴史1」についてである。
まだ船舶が海外との交通手段の中心であった時代に、 船が寄港する街である神戸や横浜に外国人を 相手にした営業がBARのはじまりであり、これが 1860年ぐらいである。
日本人を対象にしたBARの誕生は1910年、 現在の銀座8丁目に生まれた「カフェ プランタン」が 最初と言われている。翌年「カフェ ライオン」、 その向かいに「カフェ タイガー」が生まれ、 日本のBAR文化がスタートしたと言われているが、 名前からもどちらかというと現在のカフェに 近いお店であったようだ。
そのことから現在の日本のBARの形はカフェ・バーの 展開の中で生まれたものであると言える。
その後、大正時代の関東大震災、昭和初めの 第二次世界大戦などを経て、戦前から名前の残っている BARは銀座にある「ボルドー」、横浜の「パリ」、 「銀座・ルパン」が有名である。
今もなお、存続しているのは人々に愛された歴史が あり、新たにそのお店を愛するスタッフやお客様が 歴史を刻んでいるのだろう。
日比谷Barもいつまでもそうありたいものだ。

2014.01.20 (月曜日)

第2話は「BAR(酒場)の起源」についてである。
BARというのは後に生まれた語源(第1話)であり、 その酒場とは酒を商品として提供し、その場で飲ませる 営業形態のお店であるが、いつごろ生まれたかは 明らかにはされていない。→今後の考古学の発展を期待!
酒場に関する事を記されている 最も古い文献は、起源前1800年頃の 「ハンムラビ法典」である。
「ビールの代金を穀物で受け取らず銀で受け取るか、 あるいは穀物の分量に比べてビールの分量を 減らした場合には水の中に投げ込まれる。」
量を誤魔化した時の罰が原始的ではあるが、 当時の物々交換のルールや 酒場の存在が確かであったと言える。
その後紀元前1400年、エジプトでも 「酒場で酔っ払ってはいけない。」という文言が 残っている事から、当時エジプトに酒場があったと言える。
それにより、週末の街に突如、 現れる酔っ払い人たちは遠く紀元前にも 同じように存在していたと思うと、なんと神聖なものか!?
駅で寝ていたり、ネクタイを頭に巻いた「酔っ払い」が 後世にどのように語られるのかは興味深いものだ・・・

2014.01.14 (火曜日)

第1話は「BAR」という名前についてである。
BARの語源には諸説あるが、古く騎馬の時代に酒場の外に、 馬をつなぐための横木(Bar)が備えられていたこと からや、カウンターの原形が横木(Bar)であり、 酔っぱらいの荒れくれ者が酒樽から勝手に呑むのを 阻止するために用意されたなどがある。
現在ではカウンターでカクテルやウイスキーなど、酒を中心に 出す店を指すことが多く、現代ではその形態は 多様化しており、様々なものを提供するBARが存在する。 Barでは他の飲食をする店と違って、 お酒を嗜む(たしなむ)時のルールやマナーがある。
それは店側が一方的に決めたものではなく、BARが 大人の社交の場として存在し、Barという場が お酒を飲むだけでなく、仲間や恋人、バーテンダーとの 語らいや、人々が喜怒哀楽を分かち合う場であるためだ。
また独りの時間や空間としての場でもあり、会話をせずに 黙々とお酒を飲んだり、じっと考え込んだりする人もいる。
決して安いわけではないBarが今もなお、存在するのは いつの時代も形は違えど、多くの大人の男女にとって Barに価値を感じ、その存在を必要としているからだろう。